第11回シアターX(カイ)国際舞台芸術祭 公演情報 第11回シアターX(カイ)国際舞台芸術祭」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 満足度★★★★

    無題1159(14-207)
    14:30の回(曇)。14:00受付、その少し前に着いたのですが、屋外で何やらパフォーマンス…数人の男女が牛歩…長い時間をかけて建物の2階へ。

    14:21開場。ドアをくぐると立っている。また、舞台にも人がいて、じっとしている。上手のセットはキーボード?

    正面スクリーンに魚をさばいている映像。入口で手渡された資料「ルイーズ・フォンテンの物語」に目を通す。風琴工房の「国語の時間(2013/2)」も強制的に「ことば」を学ばされた人たちのお話でした。

    14:32下手より一人の女性が舞台へ、演台のようなものの前で映像と同じ動作、続いて髪を切られる者、バリカンで刈り上げられる…丸刈り、衣服を剥ぎ取られるのは「強制」を現しているのではないだろうか、そして半裸でじっと立たされるだけ。

    そして女性は語る。

    奥に位置する者はナイフでヴァイオリンを弾き、音楽を奏でないヴァイオリンは床に叩きつけられ砕け散る。

    手前に座っていた唯一の少女はバケツを持っていて、中には数匹の魚。女性は魚をさばき、切り落とされた頭は台の上に置かれ、瞬きしない丸い死んだ「眼」は客席に向いているが何も見ていない。

    歩行器、杖、台車に捕まりながら客席から舞台へ上がる者たち。

    床に倒れたままマイクに語り続ける者。

    下手奥、何十本と吊らされたナイフの下で動く者。

    映像はどこまでも続く家の様子を単調に映し、アコーデオンを抱えた全裸の者はノイズを発しながら客席までやってくる。

    15:17終演、20分の休憩。

    15:36「今日のニュースです」で開演〜15:52終演。

    今日は、ここに出ている大石さんを観にやって来ました。「ClubC」解散(2013/9)後、振付作品や客演作を観ましたが、フルダンス公演は久しぶり。「ClubC」ではお揃いの衣装をつけていて、本公演は普段着(ネクタイ着用もあり)+古事記らしい衣、で新鮮。終演後、ちょっとご挨拶。

    劇中、「ふげん」「もんじゅ」の語源に触れ「普賢、文殊という菩薩」であることを知る。

    最後は清水さん。ゆったりとした動きと縦に流れるような白い衣装。帽子をアクセントにしたり、和太鼓の音でしょうか。「木咲耶姫花」。「コノハナサクヤヒメ」は開座の公演名で何度か目にしていて、以前「祭氏」の公演(2013/2&ST)で古事記を題材にした時、少し読んだのですが、すっかり忘れていました。16:04終演。

    その後、ロビーで座談会。質問というよりは、ご自身の感想を述べる方が多く、ちょっと残念。通訳の方は頑張っていました。

    ポーランド広報センターのサイトに行って「シアターアマレヤ」の映像を観ました(YouTubeには他にも映像あり)。「ポーランドについて」の「文学」に「スタニフワフ・レム」の名前(解説はない)。「ソラリス」ポーランド語原典からの翻訳を買ったのは2004/9なのに…未読(ハヤカワの文庫は読んでます)。

    8/2から「イーダ」の上映が始まるので観たいなと思うけど…上映館が少ない。

    評価ですが、個々のパフォーマンスはとても良かった思うものの、この日の3つの組み合わせが(個人的に)しっくりこないので、全体としての評価にしました。

  • 満足度★★★★

    ポーランドの作品が圧倒的
     第一部はポーランドのAmareya Theatre & Guestsの“Nomadic Woman”。今作は、グリーンランドに住んでいたエスキモーの少女、ルイーズ・フォンテン(当時9歳)が、1960年代にデンマークで勧められたイヌイットのヨーロッパ化政策によってデンマークへ強制的に移送され、デンマークの家庭に引き取られて、デンマーク流の教養、マナー、言語等を教え込まれた。無論、本来彼女の持っていた文化・文明は総て否定禁止された。結果、彼女は、自らの魂の帰属すべき場所と機会を失い、所謂デペイズマンを抱えたまま、生涯を送ることになった。エドワード・サイード流の言葉で言えば”out of place”ということになろう。オーストラリアでは、アボリジニが同じような目にあった。日本でもかつて、アイヌに対して、更に酷い形で、同化政策が取られたことは、多くの知識人が頬っかむりしている事実である。日本の大衆は、そのような事実を知りもしなければ、知ろうともしていない実情がある。また、知っている者は、知らぬふりをする。何と言う欺瞞及び怠慢だろうか? こんなことだから、滅びに向かって一直線なのだ! 横道に逸れた。
     本題に戻ろう。この存在の不如意を、表現者たちは、ハンデキャップに仮託して表現しようとする。尚、ハンデキャップとはヨーロッパで普通に使われる障害者の呼称である。障害者という言葉に、非常に差別的なニュアンスを感じる自分は、ハンデキャップという関係の中での状態を表す表現を使わせて貰う。この時の体の重心の移動が凄い。鍛え抜かれた身体だけが、耐え得る負荷であることが、観客に明確に伝わるムーブメントは、当に身体による思想表現である。更に、開始早々、イヌイットの女性用ナイフである「ウロ」で髪の毛を少し切られた女性は、その後、バリカンで丸坊主にされた上、半裸状態で観客席から後ろ姿だけが見えるように、舞台奥の壁の前に立ち続ける。舞台上では、上手・下手に分かれて、ハンデキャップに仮託した身体パフォーマンスが演じられ、終わると60本以上の抜き身のナイフを吊り下げた下で、肌を晒したパフォーマーが踊ったりもする。刃迄の踊り手との距離は、離れている時でも30cm程度、近い時には、体に触れる。無論、実際に切れる刃物である。従って、見ている側に緊張感が走るのは当然である。刃の下から抜け出た踊り手は、腕を左右に揺らし、煙がたなびくような仕草をする。背景には、H.L.M.でもあろうか、移動しながら粗末な住宅を眺めているような映像が流れている。H.L.M.であるならば、それは、移民や、被差別民を意味しよう。そして、先ほどからずっと奥の壁前に立ち続けている、髪を剃られて半裸から、全裸になったパフォーマーに意味を付与するなら、そして、この手の動きが煙のたなびく様子を意味するなら。そう想像したら、背筋を悪寒が走った。このように緊迫したシーンを幾つも持った素晴らしい舞台であった。(★絶対5つ)
     第二部は、Dance Monsterという名の日本のグループ。演目は「今日のニュース」というタイトルで福井県の原発銀座を中心に扱った作品だが、言葉を多用して、表象する余り、身体化・内面化が乏しいように思われた。主張は明確で、理性のある者なら当然の発言であり、非科学的で非理性的な自民党やその支持者、原発推進、核大好きな滅亡推進派などには、反対を喰らうような至極真っ当な主張であり、それが、古事記や、日本古来の神々や神道と結び付けられて表現されている点で、靖国大好きな滅私奉公推進機構の国賊とその支持者たちへのアイロニーとして機能している。(★おまけで4つ)
     第三部は、清水 知恵のソロダンスで、タイトルは「蝶と遊ぶ 木花 咲耶姫」命とアイデンティティー、生き方等を求める在り様を、そのたゆたい、瞬発力、背景に浮かぶ時間等を表象しようと試みた。存在感とフォルム化された美意識には、見るべきものがあったが、主張や表現したいものの内容が、観客に伝わる為には、更なる工夫が必要に思われる。その度合いはパラダイムシフトというレベルを当然含む。(★四つ)
    総合四捨五入で★4つ

  • 満足度★★★★

    夢の見方
     いつも通り上演後に、出演者達と観客の質疑応答、作品解釈などに関するアフターミーティングが、ロビーで持たれた。日本だけが関わったのは、2作目、他は韓国と日本、フランスと日本とのコラボであったが、日本だけのものは、イマジネーションの質が、内向的で独りよがりになっているようで、自分には、余り面白く感じられなかった。詳細はネタバレで。

    ネタバレBOX

     7月3日に上演された1.劇団MIRレパートリーシアター「夢見る木と世界の終わり、そして踊る彼女」(日韓合同作品)2.保坂 尚代ダンスワークス「因幡の白ウサギは神になる?」(日本】3.プロスペクト・テアトル+アンサンブル室町「夢の色彩」{(マルグリット・ユルスナール 東方綺譚より)日仏合同}演者達による其々の作品解釈・説明で若干気になったのが、2番目の因幡の白ウサギの話であった。明らかな間違いと思われる点が、いくつかあったことである。一つは、ワニを爬虫類のそれと混同しているかのような発言が、兎が彼らを騙して越えた水域を川と表現していたことだ。これは、隠岐と気多の岬(現在の鳥取市)の間の海である。イルカなら淡水性も居るが、鮫は、海水に住む魚類である。恐らく、ワニ(自分も母がたが鳥取なので、大型の鮫をワニと表現するお年寄りが居たことを知っている)という方言から、爬虫類と混同したのであろう。古事記の研究会のことも口にされていたが、古典を読むということをなさるのであれば、注意深くお読み頂きたい。
     さて、三作の講評と参りたい。
    1は、背景に様々なイメージと字幕を適宜映し込みながら、舞台上では、ダンス表現・舞踏など、身体を用いて、荘子の「胡蝶の夢」を仲立ちとしたストーリーを展開させる作品。無論、効果音も流れてくるのだが、これらのコラボレーションと現代我々の「謳歌」している文明への疑義を呈して、秀逸。三作品の中で、自分が最も気に入った作品であった。今作のテーマは、命。その源の水から始まって始原の生命が誕生。生命の進化即ち分裂が、意識・文明を生み、文明は独自法則で発展して命を蝕み滅ぼさんとするが、滅びの刹那、漸く本義に気付いて再生を遂げる一大叙事詩だ。
    2は、白ウサギが、鮫を騙して生皮を剥がれ、その後、求婚の為に気多に向かう神々から、教えられた処方に従った兎が、酷い目に会う部分が総てネグレクトされている為、原作にあるストーリーのダイナミズムが無く、話は平板になってしまった。神など所詮、人間の発明したイリュージョンに過ぎないので、そんなものを身体という不自由な表現媒体だけで表現しようとしても極度の抽象が伝わらないのは当然である。そうしようと考えるなら、アドルノの下降弁証法のような発想のパラダイムシフトが必要であろう。神ならぬ身で、神というエーテルのようなイマージュを取り込めるわけは無いのだ。
    3は、ユルスナールの東方綺譚からの抜粋だ。ヨーロッパ(仏)ダンサーと日本舞踊のコラボレーションだが、音響として鼓が入る。たが、女性が打っているので、瞬発力が弱い。時空を切り裂くような叩き方になっていないのだ。この辺り、緩急をキチンと叩き分けて貰いたい。ユルスナールの原作のラストシーンでは、描かれているモデルの女が、死後、絵の中に現れ、絵描きが、絵の中に陥入して、皇帝の目の前で、小舟に乗った二人が絵の中で沖に向かって消えて行く所で幕という異様に美しい世界で終わる。今回は、演出家の気に入ったフレーズを断片として取り出し、改めて嵌め込んで再構成しているので、全文を読んだ方とは、異なる解釈も生まれてきそうだし、それが狙いということもあるだろう。今作は、2番目に気に入った。★は1が5つ、2が3つ、3が4つ。全体評価4つだ。

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