満足度★★★★
ポーランドの作品が圧倒的
第一部はポーランドのAmareya Theatre & Guestsの“Nomadic Woman”。今作は、グリーンランドに住んでいたエスキモーの少女、ルイーズ・フォンテン(当時9歳)が、1960年代にデンマークで勧められたイヌイットのヨーロッパ化政策によってデンマークへ強制的に移送され、デンマークの家庭に引き取られて、デンマーク流の教養、マナー、言語等を教え込まれた。無論、本来彼女の持っていた文化・文明は総て否定禁止された。結果、彼女は、自らの魂の帰属すべき場所と機会を失い、所謂デペイズマンを抱えたまま、生涯を送ることになった。エドワード・サイード流の言葉で言えば”out of place”ということになろう。オーストラリアでは、アボリジニが同じような目にあった。日本でもかつて、アイヌに対して、更に酷い形で、同化政策が取られたことは、多くの知識人が頬っかむりしている事実である。日本の大衆は、そのような事実を知りもしなければ、知ろうともしていない実情がある。また、知っている者は、知らぬふりをする。何と言う欺瞞及び怠慢だろうか? こんなことだから、滅びに向かって一直線なのだ! 横道に逸れた。
本題に戻ろう。この存在の不如意を、表現者たちは、ハンデキャップに仮託して表現しようとする。尚、ハンデキャップとはヨーロッパで普通に使われる障害者の呼称である。障害者という言葉に、非常に差別的なニュアンスを感じる自分は、ハンデキャップという関係の中での状態を表す表現を使わせて貰う。この時の体の重心の移動が凄い。鍛え抜かれた身体だけが、耐え得る負荷であることが、観客に明確に伝わるムーブメントは、当に身体による思想表現である。更に、開始早々、イヌイットの女性用ナイフである「ウロ」で髪の毛を少し切られた女性は、その後、バリカンで丸坊主にされた上、半裸状態で観客席から後ろ姿だけが見えるように、舞台奥の壁の前に立ち続ける。舞台上では、上手・下手に分かれて、ハンデキャップに仮託した身体パフォーマンスが演じられ、終わると60本以上の抜き身のナイフを吊り下げた下で、肌を晒したパフォーマーが踊ったりもする。刃迄の踊り手との距離は、離れている時でも30cm程度、近い時には、体に触れる。無論、実際に切れる刃物である。従って、見ている側に緊張感が走るのは当然である。刃の下から抜け出た踊り手は、腕を左右に揺らし、煙がたなびくような仕草をする。背景には、H.L.M.でもあろうか、移動しながら粗末な住宅を眺めているような映像が流れている。H.L.M.であるならば、それは、移民や、被差別民を意味しよう。そして、先ほどからずっと奥の壁前に立ち続けている、髪を剃られて半裸から、全裸になったパフォーマーに意味を付与するなら、そして、この手の動きが煙のたなびく様子を意味するなら。そう想像したら、背筋を悪寒が走った。このように緊迫したシーンを幾つも持った素晴らしい舞台であった。(★絶対5つ)
第二部は、Dance Monsterという名の日本のグループ。演目は「今日のニュース」というタイトルで福井県の原発銀座を中心に扱った作品だが、言葉を多用して、表象する余り、身体化・内面化が乏しいように思われた。主張は明確で、理性のある者なら当然の発言であり、非科学的で非理性的な自民党やその支持者、原発推進、核大好きな滅亡推進派などには、反対を喰らうような至極真っ当な主張であり、それが、古事記や、日本古来の神々や神道と結び付けられて表現されている点で、靖国大好きな滅私奉公推進機構の国賊とその支持者たちへのアイロニーとして機能している。(★おまけで4つ)
第三部は、清水 知恵のソロダンスで、タイトルは「蝶と遊ぶ 木花 咲耶姫」命とアイデンティティー、生き方等を求める在り様を、そのたゆたい、瞬発力、背景に浮かぶ時間等を表象しようと試みた。存在感とフォルム化された美意識には、見るべきものがあったが、主張や表現したいものの内容が、観客に伝わる為には、更なる工夫が必要に思われる。その度合いはパラダイムシフトというレベルを当然含む。(★四つ)
総合四捨五入で★4つ