緑子の部屋 公演情報 緑子の部屋」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-9件 / 9件中
  • 満足度★★★★

    ずらずらと世界に引き込まれる
    冒頭の語り口からは、
    このような世界に引き込まれることを予想だにしませんでした。

    ただ、エピソード(?)にしても内心の広がりにしても
    ただの妄想や絵空事でかたずけることのできない
    内心のリアリティのようなものがあって。

    映像にも圧倒され、すっと自分の立ち位置が揺らぐような感覚にも捉われ、
    観終わって暫し呆然としておりました。

    ネタバレBOX

    実を言うと、描かれる感覚には、
    相容れないというか、違和感を感じる部分もあるのです。

    でも、それを客観視できるかというと少し違っていて、
    描かれるものから、自分が気づかなかったり、奥にしまっておいたような感覚がすっと切り出されてくる。

    語られることをどこか距離をおいて受け取っているのに
    観ていて自分の意識外の部分が納得したり狂信しているような感覚もあって、終演時には作り手の紡ぐ世界にしっかりと巻き込まれておりました。

    面白かったです。
  • 満足度★★★★

    生理を揺さぶる知的空間
     一枚の絵に書込まれた「視線」のズレを起点に、今はもういない「緑子」の存在/不在が語られます。さまざまな人物、さまざまな側面から語られる「緑子」は、元は学校の教室であった今回の舞台の設計(白い壁に囲まれた空間に裏通路や切り穴、顔を出せる窓などが設置されている)とも相まって、徐々に(不在にも関わらず)その存在感を増していきます。一見、淡々としたテキストの中にも、ドキリとする生々しさが隠されていたり。やや、(空間の)仕掛けが先行した感もありますが、知的な考察と生理を揺さぶる感性を併せ持った、たくさんの可能性を秘めた公演だったと思います。
     美術も現代口語の淡々とした語りも、どこかサラリとして洗練されていますが、特に対話のシーンでは、もうちょっとベタな部分があっても、面白かったかもしれません。

  • 満足度★★★★

    天才に下りてきて欲しい。
    不思議な緊張感に包まれた作品だった。正直、あまり理解できなかった所もある。ただ作・演の西尾佳織さんのポテンシャルは底知れぬものを感じた。演劇にとどまらず、幅広い表現で活躍していく人なのだろうという気がした。この人が、ディズニー並みにわかりやすい物語性にチャレンジしたらどうなるかを見てみたい。

  • 満足度★★★★

    フェアネスの罠
    他者の不在を描いているというより、身の回りに「他者」がいない鬱屈と不安を、作者が作品にぶつけているかのようである。中国人従業員を下に見てバカにするような場面も、単に、見知らぬ者の象徴の「外国人労働者」であり、そこから醸される得体の知れなさは、決してその「他者」からは脅かされない、安全地帯からの考察に思える。安全地帯とは、中立地帯という意味である。西尾佳織の創作における「フェアな精神」が彼女自身をその場所に立たせている。

    もう少し説明する。緑子が途中で出て来るということは、緑子自身がほかの登場人物ひとりひとりと等価な存在感であるということだ。この作品は、三人をもってして、緑子の不在を埋める(そして埋まらない)ことを目指していたのではないか。その点で致命的である。物語として、「かつての緑子」、「周囲の人たちが語る緑子」を呼び起こすための語り(謎そのもの)が移動していく範囲は、定めなければならない。

    恐らく西尾佳織は、「差別」「嫌悪」といった、抽象的な巨大な「悪」そのものを考え、向き合い、対決しようとしている。その「賢さ」に基づく「平等さ」が彼女の邪魔をしている。かといって、意地悪で狭小になっても作品は広がらない。だからこれを観ていて苦しく感じたのは、彼女の視野の狭さのためではなく、悪を許さぬ「心の狭さ」が出ていたからだ。それはよくない。

    公平さについて、もう一つ例を挙げる。物語は生々しく、熊の肝などグロテスクなモチーフを使って語られ、それはわたしを不穏な気持ちにさせた。しかしそれはモチーフそのものの気持ち悪さではなく、エピソードにおいて倫理観のストッパーがないことから来る不穏さであった。女性が、蟻の行列を殺したくなってしまうと語ること、肝を取られる熊の親があまりのつらさに小熊を殺そうとするその光景。機械で切り落とされた男の指が飛んで餃子に練り込まれ、販売されたそれを誰かが食べたかもしれない、という事実には、その重みを支えるだけの「底」が無い。他者に対する「許せなさ」は持っているのに、行動を支える倫理観の「縛り」がないことが、西尾佳織の今の寄る辺無さにつながっているのであれば不幸なことである。

    極力、文学的修辞や比喩を少なくして淡々と書かれたテクストは、深みが足りないのでわたしは包み込まれなかった。問題意識の大きさに、言葉が追いついていない。昨年、『蒸発』で描かれた、他人への妄想にも似た思いが相手を形づくり、ゆっくりこちら側を浸食してくるような恐ろしさは健在だ。語り口が移り変わってゆく様子、シーンの構成、それらが指し示す演劇的な構造は素晴らしく、その巧みさは疑う余地はない。

    先ほどの「公平さ」の話と通じることではあるが、嫌悪感、疎外感そのものに迫ろうとするあまり、抽象的な空回りに陥ってしまいそうな危うさがある。他の人にとって「嫌なこと」かもしれないが西尾佳織にとっての「嫌なこと」に触れていないのではないか。もっと言うなら「本当は嫌なんだけど書きたいこと、つい書いてしまうこと」が作家として足りない。世の中の悪の仕組みを見つめるだけでなく、自分が何を嫌悪しているか、疎外しているのか、もっと強く見つめてほしい。そして、もしこの先の深淵に彼女が本当に辿り着こうとするのであれば、何よりも必要なのは精緻で美しい言葉である。嫌なことを人に聞いてもらうには美しい言葉が必要だからだ。美しさは構造を支える。演劇作品の構造に負けないテクストが書かれていくことを私は望むし、応援する。

  • 満足度★★★

    不在の他人、消失した他人とは私自身である
     学校の教室の壁が白く塗られていました。床には白いカーペットが敷かれており、学校によくある金属製の脚と木を使ったイス数脚と、よく似た素材のテーブルが置かれています。客席は演技スペースをL字型に囲むスタイル。質素だけれど、そぎ落とされたおしゃれ感のある空間でした。そこに洗練されたカジュアル・ルックの若者3人(男性2人、女性1人)が登場します。役者さんが若者らしい現代口語を話し、複数人をシームレスに演じていくのはチェルフィッチュの『三月の5日間』に似ていました。

     今どきのごく普通のおしゃべりから、緑子という若い女性の育ちや性格、友人・恋人関係などが少しずつ浮かび上がってきます。3人の役者さんは緑子に関わりのあったさまざまな人物を、短いエピソードごとに演じ分けていき、激しく動きながら長いセリフを言い続けたり、言葉の意味とは明らかに違う体の動きを見せるなど、負荷の高い演技をされていました。

     昨年9月に拝見した鳥公園の短編『蒸発』は、肌で確かめられるような生々しい肉感があって、それゆえの切実さや切迫感から、鼻を突くような刺激的なエロスもあったと思うんです。それに比べると今作は知性できれいに整理整頓されているような印象を受け、個人的には物足りなかったです。

    ネタバレBOX

     衣裳のデザインはクールでスポーティー。一見、普段着っぽくはあるのですが、舞台美術との統一感や色のバランスなどにもこだわりがありそうです。3人ともナイキやニューバランスのカラフルで派手な運動靴を履いています。全然汚れていないので、運動靴というよりは「高そうな衣装」に見えました。

     女性のロングスカートは鮮やかな青色で、中に履いたスパッツがうっすら透けて見える布地でした。また、Tシャツの胸元は胸の谷間が見えるかどうかギリギリのラインまで開いています。クールなエロスを狙っているのだろうと思いました。男性がシャツの左胸に可愛らしいブローチを2個付けていたり、もう1人の男性は短パンで足の肌がある程度露出していたり、衣裳がもたらす効果に気配りが見られます。衣裳なんだから当然といえば当然ですが、この俳優さんたちは普段はきっとこんな服は着ていないだろうと思いながら眺めることになりました。

     壁に取り付けられた白い箱や、舞台中央奥の隅っこにポツンと建てられている白いロッカーを開くと、穴とともに草木の緑色が現れました。壁と床の白地に茶、緑といったアースカラーが配色され、やがてあるタイミングで、ロッカーの穴から黄色いパンティーや真っ青なブラジャーなど、色とりどりの女性の衣服や小物(ゴミ?)が、おもちゃ箱をひっくり返したように引き出されてきます。カラフルな洋服たちが紐に吊り下げられ、洗濯物を干したような状態で舞台を横切って宙ぶらりんになりました。

     画としても見栄えがするし、空間全体に与えるインパクトも鮮烈で巧妙だと思いましたが、全てがいかにも狙った感じに見えてしまい、どうにも苦手でした。たとえば俳優の動線についても、演技スペースの周囲を走ったり、教室の窓枠を使ったり貪欲にチャレンジされていましたが、「チャレンジするための行為」にとどまっていて、私にはあまり効果的だとは感じられませんでした。ハイセンスな映像演出も含め全体がインテリジェンスでのっぺりと均一化され、“ある定型(パターン)”になっているように感じました。

     画集の中の1枚の絵について語るシーンから始まり、それと相似するシーンで終幕します。絵の中の人物が自分を見ている、もしくはその人物は私自身であるという視点を美しく示し、自死したのかもしれない緑子や、その他の「不在」になった人々もまた自分自身であるという、当事者性をはっきりさせるのが潔いと思いました。

     紅一点の女優さん(武井翔子)は主に緑子の友人の「イヨ」役でしたが、時には回想シーンで緑子役を演じることもあり、最後には「イヨ」でもあり「緑子」でもあり「アヤ」でもあるという、1人の人間なのに3人、もしくは無数の人類を代表する生命体といった存在感を担われていました。こういう瞬間に立ち会えた時、舞台を観に来て良かったと思います。
  • 満足度★★★★★

    無題1054(14-093)
    19:00の回(雨)。18:30受付(チラシには整理番号付とありますが、そうではありませんでした)、開場。旧池尻中学校の「世田谷ものづくり学校」と同じ(旧校利用)ようです。入ると右/左にL字型の座席配置。風呂桶椅子、パイプ椅子、教室の棚(?)を利用したベンチシート。
    右の椅子席に座ります。正面にテーブル(発泡酒とグラス)と椅子、上手奥に細いロッカー、壁に何か造りつけてあります。下手床にプロジェクター、客席後ろにカメラ。18:56当日券の方が席へ、19:07前説(西尾さん、75分)、開演~20:21終演。台本を購入。

    此処は初めてで、鳥公演は(訂正:帰宅後よーく確認すると)、小鳥公園「女生徒(2011/4@神楽坂フラスコ)」を観ていました。「鮭スペアレ」の公演(2014/2@LE DECO)を観に行ったとき、中込さんとのトークに西尾さんがでていらっしゃったので次の公演を観てみようと思っていました。

    記憶はあいまいですが、武井さんは「廃墟(2011/4@KASSAI)」、「Live Forever(2011/10@大山)」、浅井さんは「インスタントガール(2012/12@COREDO)」、鳥島さんは「Turning Point(2012/3@スズナリ)」を観ていました。

    劇中、客席側からの映像が壁一面に映ります。役者さんご本人とその影、映像の中にもう一組、またその中にもう一組...意図的なのか、お話が微妙に人物を入れ替えていることと重ねて(エコー、残像)観てしまいました。

    7章からなるお芝居...浅井さん餃子づくりが巧い。

    次回公演はずっと先だそうで、7月の「8」に行けるようでしたら。

    ネタバレBOX

    雑記。
    白く平坦な床、ポツンと家具、元は工作室だったらしい。「ものづくり学校」は会場である教室から校庭や通りすぎる人が見えていましたが、此処は密閉された地下のひっそりとした空間、3人の息づかい。

    麒麟、発泡酒の真ん中の缶、ラベルがちょっと違うが、揃って客席側に見えるように置いてあるのも演出のひとつだろうか。

    ◼︎不思議なこと
    下着の満艦飾、出されなかった年賀状。

    熊の胆汁、工場の惨事、指先と餃子、在日、多くの死、一人の死。

    入れ替わる井尾と緑子。

    通夜?

    「教室」という意識が残っているので、捉えられたような感じを受ける(よい学生ではなかった)のですが、それはこのお話によるものだったのか、ここは日常の判断基準を外れたところ、ここでは不在、お話の中の絵に中にいるらしい少女。

  • 満足度★★★

    ネタばれ
    ネタばれ

    ネタバレBOX

    鳥公園の【緑子の部屋】を観劇。

    いなくなってしまった緑子について兄、友人、恋人が語る物語である。
    ベケットの【ゴドーを待ちながら】という感じは全くないのだが、それを想起してしまうのが、今作を観劇する上では大きな過ちであるようだ。

    緑子という人物の人柄や人格について語りあっているのだが、それが単なる他者とのコミュニケーションを取るための話題であり、道具ではないかと錯覚してしまうほど、緑子とは誰?については深く触れていないのである。
    決して不条理ではないのだが、条理ともいえない同じ様な日常を我々は同じ様に過ごしているのかな?とふっと思わせてくれる物語である。
    観劇中、観劇後と考え過ぎれば過ぎるほど、迷宮に連れて行ってくれる奇妙な演劇であった。
    そして起承転結がある演劇を鑑賞しよう!なんて気持ちを持って客席に座った時点で、観客は撃沈されてしまうのである。

    とても他人には勧められないが、観る価値はあると思う。

  • 満足度★★★★

    五感に刺激的
    ひとりの画家の画集に触発されて、そこから不思議な世界が繰り広げられる。

    大事件が起こるわけでも、ドラマが展開されるわけでもないのに、とてもハラハラドキドキさせられるのが不思議だった。

    視覚聴覚臭覚、さまざまな感覚が刺激されて、私の中で緑子の存在がどんどん不思議な魅力を増福していった。

    3人の役者は3人とも身体が鍛えられていて素敵だったことも付け加えておきたい。

  • 満足度★★★★★

    緑子の部屋
    廃校になった学校がアートの総合施設のようになっていて、
    その一教室での公演。終演後、劇中で使用されていた絵の作者の方と作・演出家とのアフタートークがあった。
    人物と眼差し、場面、言葉、舞台美術、映像、絵がコラージュされていて面白かった。

    ネタバレBOX

    この劇とはあまり関係がないが、昨日あるサイトにアップされた金融破綻に関する記事を読んだ。カリフォルニア大学バークレー校の社会学者たちが連銀の議事録を分析して、連銀が自らが適用している経済モデルと独立して経済が存在する経済モデルで議論していることが金融破綻を導いたと結論していた。
    それで今日この劇を観に行くために地下鉄に乗っていて、ふと新田義弘『現象学とは何か』を思い出した。その本では現象学が破綻するところまで現象学でたどっていた。現象学が不可能なのを示すのに現象学を遂行するしかないのはアニメ『スペース☆ダンディー』のエピソードにでもなりそうだな、とか。前から鳥公園には現象学のような身体に対する繊細なセンスがあると思っていたというのもある。
    今回の劇を見てひとつわかったのは、空間を撮った像を同じ空間に映すと鏡に鏡を映したときと同じように入れ子が生じて消失点に収束してゆくのだが、その点の周辺には解像度をあげれば無限に入れ子された構造があるものの、現実世界には解像度の限界があって、その点の近くで構造が壊れているということである。
    最後のほうの場面で言うと、大熊と井尾の同時性の番版が外れて、大熊にとって井尾は緑子となり、井尾はデジャヴと現在が壊乱されて自己同一性が崩壊しそうになっていた。緑子が消失点の役割を担っているようだ。
    それと餃子の香りがしたりする生々しいところがよかった。前作の『カンロ』を見ていたので、その前日譚としても楽しめた。

    (追記4/4)
    井尾(緑子)が絵のなかでこちらを見ている人を指して「これは私です」と言って終わったのは、舞台のなかの井尾(緑子)を見ている観客もまた井尾(緑子)であることを予感させた。次第に輪郭を失う入れ子の環のなかに観客も投げ込まれた。

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