緑子の部屋 公演情報 鳥公園「緑子の部屋」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    緑子の部屋
    廃校になった学校がアートの総合施設のようになっていて、
    その一教室での公演。終演後、劇中で使用されていた絵の作者の方と作・演出家とのアフタートークがあった。
    人物と眼差し、場面、言葉、舞台美術、映像、絵がコラージュされていて面白かった。

    ネタバレBOX

    この劇とはあまり関係がないが、昨日あるサイトにアップされた金融破綻に関する記事を読んだ。カリフォルニア大学バークレー校の社会学者たちが連銀の議事録を分析して、連銀が自らが適用している経済モデルと独立して経済が存在する経済モデルで議論していることが金融破綻を導いたと結論していた。
    それで今日この劇を観に行くために地下鉄に乗っていて、ふと新田義弘『現象学とは何か』を思い出した。その本では現象学が破綻するところまで現象学でたどっていた。現象学が不可能なのを示すのに現象学を遂行するしかないのはアニメ『スペース☆ダンディー』のエピソードにでもなりそうだな、とか。前から鳥公園には現象学のような身体に対する繊細なセンスがあると思っていたというのもある。
    今回の劇を見てひとつわかったのは、空間を撮った像を同じ空間に映すと鏡に鏡を映したときと同じように入れ子が生じて消失点に収束してゆくのだが、その点の周辺には解像度をあげれば無限に入れ子された構造があるものの、現実世界には解像度の限界があって、その点の近くで構造が壊れているということである。
    最後のほうの場面で言うと、大熊と井尾の同時性の番版が外れて、大熊にとって井尾は緑子となり、井尾はデジャヴと現在が壊乱されて自己同一性が崩壊しそうになっていた。緑子が消失点の役割を担っているようだ。
    それと餃子の香りがしたりする生々しいところがよかった。前作の『カンロ』を見ていたので、その前日譚としても楽しめた。

    (追記4/4)
    井尾(緑子)が絵のなかでこちらを見ている人を指して「これは私です」と言って終わったのは、舞台のなかの井尾(緑子)を見ている観客もまた井尾(緑子)であることを予感させた。次第に輪郭を失う入れ子の環のなかに観客も投げ込まれた。

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    2014/03/27 18:59

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