【公演終了】ステロタイプテスト/パス 公演情報 【公演終了】ステロタイプテスト/パス」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.4
1-14件 / 14件中
  • すみません分かりませんでしたm(_ _)m
    全面的に土下座します。分かりませんでしたm(_ _)m 安藤さんや岡野さん、川田さんや伊神さん・・・素敵な役者さんが沢山いらしたのに理解できないことが辛く、終演後のお茶会でもやはり何も掴むことができず残念でした。しかし、主宰の作者さんの熱心なお話には演劇への情熱が伺え、歩み寄りが出来なかった自分の不甲斐なさに悔しい思いをしていたり。うーん、でも、演劇って何だろう。もっと楽に楽しんで観たいな。いえ、あくまでも私の好みの問題です。

  • 満足度★★★★

    観方を見ぃ付けたっ
    近未来(?)のある施設でのあれこれ(←敢えて「出来事」にしない)。
    お得意の同時多発会話にしても隠喩らしきものにしても取り方がさまざまで、無理して全部を受け取ろうとしなくて良いのではないか?と思い当たる。
    つまりツイッターでよく見かける沢山の文字が並んだ中から「最初に見付けた3つの単語があなたに必要なものです」というアレと同様に、観る側が受け取ることができたものがこの芝居、なのではあるまいか。
    そう気付いたらもうこっちのモン、自分の受け取れる範囲内のものをそのまま受け取ればイイ(笑)。
    また、同時多発会話で、一部がシンクロしたりするのも面白かった。こういうの、好きなんだな。

  • 満足度★★★★

    フェアでありつつも・・・。
    舞台の仕掛けというか、
    その舞台を構成するものとか、要素とか、
    なにを表現しようとしているのかなどは、
    しっかりと観る側に提示されていたように思います。

    決してつならなくはなかったし、舞台に前のめりにもさせられたけれど
    ただ、それが繰り返され紡がれる場に作り手が何を置こうとしたかについては明確に掴み取れませんでした。

    ネタバレBOX

    舞台にあるものが、
    表層の人物だけではなく人格の要素を担っていることが、
    繰り返しのなかで少しずつほどけてくる感じは、
    フォーカスが少しずつ訪れてくるような感覚があって、
    しっかりとひきつけられました。

    台詞、距離感、さらには身体が紡ぐもの・・・。
    そして繰り返し・・・。
    作り手が個々の表そうとしたものを
    舞台を食い入るように見つめ、
    ひとつずつ組み立てていく感じがあって、
    それはそれでおもしろかったです。

    ただ、それぞれのロールが描き出すものが
    次第に姿を現し語られる場所というか、
    切り取られた空間がどうにもしっかりとつかみきれない。
    あの日以降のこの国の雰囲気を描き出しているような暗示はあるのですが、
    なんだろ、世界が編み上げられ手いる場所が
    次第に明確になってくるキャラクター達の在り様とはことなって、
    いつまでもうすぼんやりと感じられたことでした。

  • 満足度★★

    期待はずれ
    理解出来なかったから再度観たいと思うものや理解出来なくてもおもしろい芝居は沢山あるが、この作品は理解出来なかったからただそのままスルーするだけだ。何度見ても理解できないだろうし恐らく作者も観客には理解を求めてはいまい。終盤リピートのシーンで(私にとって)光明が見えそうになったが果たして見えなかった。こういう芝居を演じる役者はモチベーションをいかにして上げるのか、どことなく不安そうに演技してる演技者たちを見てそんなことを考えた。

  • 満足度★★★

    言葉と記憶
    3つの状況がはっきりとした境界が無いままに同時進行し、台詞が複雑に絡み合う中で、言葉による記述と記憶の関係を巡る考察が展開する刺激的な作品でした。

    アルコール中毒患者のリハビリ施設、断食によって超能力を獲得する教室、(原発事故をイメージさせる)ある災害または事故に関して仕事をする作業員の休憩所の3つのシチュエーションが同じ場所で同時に展開し、しかもその3つの話が完全にパラレルという訳ではなく、他のエピソードが曖昧に浸食して、全体像を把握するのが困難な構造でした。足元が土足、スリッパ、裸足の3つにグループ分けされているものの、各エピソードに一対一の対応をしている訳ではなく、惑わされました。
    メインとなる役の男性(チェックのシャツ)と女性(白のシャツ)はそれぞれ2人の役者によって演じられ、更にその男女のどちらの役も演じる役者が1人いて(チェックのシャツの上に白のシャツを着用)、複雑さに輪をかけていました。
    しかしその混迷が悪印象とはならず、むしろ何とか話に追い付こうとして引き込まれました。また自己の存在の不確かさを表しているようにも感じられ、印象的でした。

    台詞がシンクロしたりループしたりと凝った構成ながらシュールな笑いや詩的な美しい台詞もあり、理屈でガチガチになっていないのが良かったです。携帯電話オフのお願いを劇中に上手く混ぜていたのがユーモラスでした。

    既存のステージをかさ上げして設けた床が軋んだり、セットの椅子やベンチが中途半端にぼろかったりと、脚本・演出・演技のクオリティーに対して舞台美術の作りが甘かったのが残念でした。

  • トランス
    演劇というか、音楽でいうトランスでした。
    同じセリフの繰り返し、同じシーンの繰り返しにより、
    強調されるものがある。

    ネタバレBOX

    震災によってはっきりしたはずのなにかなのに、
    それによって逃避している人間たちの悲喜こもごも模様。

    震災後遺症だけに絞ったほうがもっと強調された部分があったと思う。


    モノを忘れてしまうのは人間の悲しい習性なので
    アルコール中毒という要素はないほうが良かった。

    はっきりしない中で、はっきりしていたのは
    食欲の欲望だけ。

    帰り道、あんぱんが食べたくなって買って帰りました。牛乳も。
  • 満足度★★

    魅せたいものがなんなのか?
    他のみなさんが言うとおり、何が言いたいのか?みたいなモノは正直私にもわかりませんでした。ただ、割りと最近よく見かけられるような多重会話の積み重ねという手法でどういう効果を見せたかったのかが私にはわかりませんでした。

    ネタバレBOX

    特に今回はとてもリズムが心地よく、逆に役者さんはとても振付けのような、歌のような台詞になってしまい、自然な会話などを求めたのでしょうがとても不自然に見えました。全員が人形のような。だからそこに心がなく、見ていて、舞台上にいる人がそこにいるのではなくそこにいる役者個人に見えてしまい残念。

    ストーリー、メッセージなどは別に無くてもいいとは思います。が、ねらいはあった方がいいのではないでしょうか?

    震災を匂わすような表現がありましたが、モチーフとしては必要ないように感じました。最近多いですねこういうのが。震災の影響が大きい芝居内容でないのであれば、ただの雰囲気芝居になってしまうのが残念です。ただ意味深なだけ。

    ビジュアルに洗練がない。特に衣裳。同じ人を数人で演じるイメージとしては衣裳のチョットした違い、またはちょっとした被り(同じところ)のバランスが悪い、というか多分考えられていないだけだと思いました。ちょっとは気にした方がいいと思います。
  • 満足度★★★★★

    不思議な空間
    初ジエン社。出演してる役者さんから、「この劇団は特殊なんです」と聞いていたが、確かに理解困難な面が多々ある。しかし、だからと言って面白くないかと言えば、否。面白い。フライヤーも興味をひかれるが、当日パンフレットもなかなか良い。さらに、劇後解説と称する佐々木敦氏とのアフタートークが非常に良かった。観劇中の「ん?」をすべて解決してくれた。ちなみに佐々木氏は舞台に向かって右手に座って観劇していた。台本を購入しようとしたら売り切れになっていた。使用楽曲もすごく良かった。

    ネタバレBOX

    同じ名前の登場人物が何人かいて、関係性が理解出来なかった。伯爵のお留守で主役だった岡野康弘さんは素晴らしい。川田智美さんは魅力的。お気に入りの湯舟すぴかさんは、背がスラリと高く立ち姿が綺麗。一番好感が持てたのは、前日のアフタートークで、アフタートークが嫌いだと語っていた作者本介こと山本健介さん。「同時多発会話」を劇中、多用しているが、その中でもこの台詞は特に聞いて欲しいというものがある、と語ったとき客席後方で聞いていた出演者から爆笑されていた。佐々木さんの発言で印象的だったのは、「震災の話しはもういいじゃないとみんなが思い始めた時に改めて言い出す人に僕は信頼を置く」という発言。この方を招いてくれて感謝。
  • 満足度★★★

    難解な一作
    2014年初観劇でした。

    内容に関しては、失礼ながら「よくわかりませんでした。」
    不自然の極みとも言えるくらい咬み合わない会話が、複数の場所で同時進行で展開される舞台に、観ている側は完全に置いてけぼりにさせられました。笑
    それでも、ひとまず自分の中での解釈が最後の方にまとまってきて、
    観ていて楽しかったです。(何が?と聞かれると、答えられませんが…)

    それを含めて個人的には何故か、最後まで飽きずに観ることが出来ました。

    おそらく台詞の一つ一つに意味を求めるのではなく、「ながら観」するくらいの心構えで観ると、調度良いのかもしれません。

  • 満足度★★★

    不思議な引力
    内容は、言ってしまえばよくわかりませんでした。結局何を伝えたかったのか…。
    物語として面白かったか、と問われるとなんとも言えません。

    ですがそれでも、最後まで目を離すことのできない不思議な引力があの空間にはあったと思います。
    同時多発的に進んでいる会話が、気付けば繋がっているあの面白さは、それぞれのタイミングをあわせられなければ出来ない難しい物なのでは無いでしょうか。すごい。

    これで、ストーリーにもう少しわかりやすい着地点なんかがあればもっと評価されるのではないかとも思いましたが、それが無いからこそのこの引力、魅力なのかもしれないので、悩む所です。
    劇場に入った瞬間から、しっかりと空気が作られていたのも良かったです。

  • 満足度★★★★★

    無題966(14-005)
    19:45の回(晴)、19:01受付(整理番号あり)、19:16開場。19:30開演と思い込んでいて、18:40会場着、ちょうど外に出ていた清水さんに時間を間違えていることを教えられる(なんとも不覚)。中へ入ると、やはり数人の役者さんが舞台に。コの字型の客席、左右の席がお勧めということで、どうしようかちょっとだけ考え、結局、右側の席へ(そういえば前作は左側でした)。役者さんとの距離感や、配置など左右の席がいいと思いました。正面からみて、下手にベンチ、正面にもベンチ、その奥は階段、椅子が数席点在、黒い床、真ん中に長方形の真っ白な窪みがあり、薄く水が張ってあります。階段の上部にせり出した天井(?)、先端に亀裂があり、そこは肉片のような赤い色。役者の一人が手にしているラジオ(?)から音楽が流れ、19:30客席後方より白いレインコートを着た男が現れ前説(あと15分)、19:44(あと5分)、ここまで客席ではほとんど話し声がなく、19:49岡野さん登場〜21:02終演、劇後解説21:09〜21:35。終演後、台本を購入、どのような設定になっているのかト書きを読むと、想像とはかなり違っていましたが、面白かったです。

    結局、すべては滲んでゆく「墨」だったように感じました。

  • 満足度★★★★★

    書道ってわからないよなー
    っていうことで、言葉を信じていない劇作家が、書道の見方に「空気」を発見して、作り上げたのがこの舞台。

    ディスコミニケーションをディスコミニケーションで伝えたら、ディスコミニケーションでした、と。

    でも「空気」だから、そこは察してね、と言っている。

    察したので、面白がって★を多めに付けてみた。
    書道を見る「先生」みたいにね。

    「空気」を見せているはずなのに、観客は窒息する。
    役者も、そして、作者本人も窒息する。

    普通に考えると、演劇作品としては酷いもんだけどね。

    (感想、またダラダラと書いてしまった)

    ネタバレBOX

    上演する脚本を書くときに、作者本介さんには、もやっとしたものがあったに違いない。
    それを上演するための脚本にすることで、彼の中で何らかの「カタチ」になっていき、言語によって表現し、上演できる作品になっていくのではないか、という期待があっただろう。
    (私の感想も、ほとんどの場合、書きながら考えていくので、最後はどうなるのか自分でもわからないのだけど……)

    この脚本は、脚本を書いた作者本介さんの中で(だけ)、書いていくことで、純化されていったに違いない。
    それが、演出との融合で、役者の身体になり台詞(言葉)になり、それぞれの役者たちの中(だけ)でも純化された。

    作・演出家のそれと、役者たちのそれとは完全に一致していないと思うが、ある一点においてバランスがとれた、幸福の瞬間にこの作品は誕生したと言っていいだろう。

    で、作品と観客との関係で言えば、作・演と役者の関係のように、長い時間を共有しながら、さらにコミュケーションを重ねながら作り上げていったものとはほど遠く、わずか80分の共有時間の中でしか、触れることができない。

    なので、同じ方向での意思がある人にとっては、彼らの「純化」に触れ、感じるものがあったかもしれない。
    また、自己の中においての、何らしかの気持ちの端緒に触れて、「ああ」と感じた人もいるかもしれない。
    そのような彼らは幸福だったと思う。
    彼らは「素晴らしい作品だ」と言うに違いない。
    かなりの少数派だとは思うが。

    当パンを開演前にパラパラと見た。
    「書道がわかんないんだよねー」みたいなことが書いてあった。
    「ああ、なるほど、これから始まる演劇はそういうセンで来るわけか」
    と身構えていたら、まさにそのとおりだった。

    どう見ていいのか、という視点が定まってこない。
    どこかに定まる瞬間が、普通の演劇だとあるはずなのだ。
    が、それはない。それが出てこないのだ。

    つまり、当パンに書いてあるような「書道のどこが面白いのか」を言ってくれる「先生」は出てこない、と思えばいい(書道の場合のように、「どこが面白いのか」を言ってくれたとしても、それがわからないのだけどね)。

    ジエン社の演劇で、今まで、「実は、こうでした」とか「オチ」を見せたことは一度もないので、このままそれはずっとないものと思えば気が楽である。
    だから、書道や抽象画のように、勝手に楽しめばいいのだ。
    だから、「どう楽しい」のか「どう美しい」のかを自分なりの尺度で見なければならない。

    舞台芸術で言えば、モダンダンスや舞踏を見るつもりで楽しむことができれば、いいのかもしれない。
    しかし、今までは、ジエン社の演劇には「ストーリー」的なものは確かにあったし、「普通の演劇」的な見方でも十分対応できた。
    わかりにくさは、「あえて」演出してあったが、それでも「話の筋」を「追う」ことはできた。

    なので、やはり台詞が気になるし、人間関係も気になってくる。
    それらを無視して、ダンスとして楽しめ、とは言わない。

    つまり、「アルコールが混じった汚染水」とか「避難する」とかと言った、イマっぽいというか、それっぽい台詞を頼りにする方法もあるし、「アルコールを断つ」とか「断食」とか、あるいは「文字を書けない」に代表される「精神的にアレ」な人々という視点からの尺度もあろう。

    それを踏まえて、こう見た。

    まず、主人公は誰なのか、という視点から見てみると、やはり深積イリヤだろう。
    キーワードは「文字(言葉)」。

    明らかにいくつかの空間と時間のレイヤーが重なっている。

    深積イリヤの時間経過と劇中での時間経過にはブレがある。
    また、「絶食セミナー」や「断酒会(アルコールを断つ)」の要素も重なっている。
    さらにそこに「断食による超能力開発」のような要素も絡む。
    「アルコールを含んだ汚染水」を食い止めるための「コンクリートで何かを作る」という現場の休憩所でもあるし、汚染水の危険が及ぶ可能性がある場所でもある。

    文字が書けない深積イリヤの登場で、さらに「精神的な医療施設」でもあるようだ。

    「精神疾患のための医療施設」というセンで見ていくとしたら、すべてはきちんと収まってくるように思えてくる。

    彼らの「断食」「断酒」は、治療の一環であり、超能力やコンクリート作業は妄想で(後半超能力は否定されるし)、深積イリヤに自分が見えてきたり、「先生」と呼ばれる榛名田うみももう1人現れる。彼ら2人は、さらにもひとりの女性としても現れてきるのだが、これを「幻覚」と見てしまえば、簡単になってくる。

    そういう見方もアリだろう。

    見方のポイントは足元。
    「靴」「スリッパ」「裸足」の3種類の足元がある。

    「靴」は「外部との関係」。つまり、この場所の外につながる人々。
    「スリッパ」は「内部との関係」。つまり、この場所から出られない人々。
    「裸足」は「人の内部との関係」。つまり、登場人物の中にいるので、足元には何もない。

    そういう見方もあろう。

    ジエン社って、いつもディスコミニケーションに怯えているように思える。
    それは、作・演の作者本介さん、1人だけの劇団みたいなので、彼の感覚だろう。
    それは「外」との関係をいつも強く意識しているように思える。
    そして、役者たちもそこは共感できるのであろう。

    ジエン社(作者本介さん)は「台詞(言葉)」自体を信じていないようだ。
    というか信じられないようだ。
    「言葉は相手に届いていない」ということを強く感じているのではないだろうか。

    だから、劇中でも台詞のやり取りが会話として成立してない場面が出てくる。
    いや、会話のように、ある人が別の人に何か言ったら、言われた人はそれに対して応答しているのだが、本気で会話しているとは思えてこないのだ。

    笑いこそすべてだ、的な登場人物が出てくるが、それが伝わらないというのが、それだろう。

    まさに「凄い書道」の作品は、「書いてあること」自体が伝わるのではなく(何しろ何て書いてあるか読めないのだから)、その有り様が評価されるということにつながってくることと同じなのだ。

    この作品では、それを「空気」と読んでいる。

    つまり、言葉を信じていない劇作家が、書道の作品に「これだ」というものを発見して、作り上げた作品だ、というのは言い過ぎだろうか。

    台詞や役者の肉体が、半紙の上の墨の文字のように、舞台の上に配置され、時折観客の耳に入る「言葉」や目に入る役者の動きの「配置」あるいは「空気」を楽しむというものではないか。

    フライヤーにあった「手書きで文字を書いて」「どこかに貼ってみよう」というのは、「文字」を「意味から切り離す」という行為であり、観客もそれをやってみたらいい、ということであろう。
    自分は(作・演の作者本介さんは)、「そういう世界にいるんだ」ということなのだ。
    もちろん、演出しているから「言葉は通じている」し、「伝わっている」。しかし、本質的には「それを」「信じていない」ということなのだ。

    観客とは「ディスコミニケーション」にならないように、「書道なんだよ」と言い続けているのだが、実態としては、それは伝わりづらいというのが、また、この作品の本質とかかわってきて、観客と作品とが、複雑なレイヤー構造になっていく。

    ディスコミニケーションをディスコミニケーションで伝えたら、ディスコミニケーションでしたというわけ。
    でも「空気」だから、そこは察してね、と言っている。
    「演劇」で、舞台に上げているからね。

    言葉を信じていない人の言葉は伝わらないのが当然だ。

    作・演の作者本介さんは、その様子を見て「やっぱり言葉は信じられない」と思い詰めるのかもしれない。

    当パンには「……何を僕は見ているのか、広い会場で、私はまるで重い水に飲み込まれたように、窒息していた」と、最後のほうに書いてあった。

    深積イリヤのとまどいも、それ、だ。
    文字を書けないことだけではなく、自分がどう人とかかわっているのかがわからない。
    ラストに視点を変えて、榛名田うみが、この場所に深積イリヤの登場と同じにやって来る。
    まったく同じ。
    登場人物はすべて入れ替わる。

    深積イリヤであるはずの深積イリヤは、そこで立ち尽くし、それを見ている。
    自分の存在がグラグラしだす。
    どこにも自分はいない。
    「深積イリヤ」という言葉でしか存在しない自己は、文字が書けない深積イリヤには存在させることができないということ。

    文字は意味から離れていく。

    「……何を僕は見ているのか、広い会場で、私はまるで重い水に飲み込まれたように、窒息していた」。

    「空気」なのにね、「窒息」している。

    まさに、同じ体験を観客も、役者も、そして作・演の本人も感じていた(窒息していた)と思う。
    それが、この作品の結論だ。

    「ストーリー」は、それぞれの中で楽しめばいい。


    ジエン社、面白いぞ。
    次どうするのか? 
  • 満足度

    全く・・
    分かりませんでした。何を伝えたかったのか、自分なりに一生懸命考えましたが・・結局分かりませんでした。

  • 劇後解説に感謝
    ネタバレかもしれませんので、箱に入れます

    ネタバレBOX

    開演前から うねうねと微妙に演技している俳優たち、でもその感じはいささか徹夜明けの雰囲気、だりぃ感じでありまして(たぶん演出上)ひょっとしたらこれはまっすぐ真面目に観たら足元をすくわれる芝居なのかもしれない、観客を嘲笑うたぐいの芝居なのかもしれないと警戒(笑)しました。でもなぜ木戸銭まで払って嘲笑われる?否!腐っても観客なら登場人物の解説やらコンセプトのようなものが書いてある(会場で配られたパンフレット)を一切読まずに観てやろうじゃないか…

    腑に落ちないことだらけで これを観てどう感じたらいいのか、という言い方は変だが こちらで手前にミットを構えているのに急に後ろ向きにボールを放られる感じ、とでも言おうか。居心地悪い。時計がないのが残念。だが、ひとを食った…と不快感はぬぐえないが、その台詞の生真面目さにしばしば立ち止まらざるを得ない。

    私の木戸銭、できれば返してほしい…とつぶやきたくなるのを押さえながら元をとらねばという思いで終演後の劇後解説まで居座る。

    枡野浩一氏(歌人、芸人)の解説を聞いて はたと膝を打つ。

    そう、私はこれを言いたかったのかも。言いたくても言えずそれが昇華せずに未消化となりこのむかつきに似た症状になったのだ。

    しかしこのひとの眼はすごいと思う。批評ではなく、まんま見る眼がすごい。


    枡野氏が言ったように私もまず惹かれたのが、このチラシの文章。このチラシなくばたぶん未消化どころか初見で行く気持ちもなかった。このチラシの持つぞくぞく感が舞台ではまっすぐに来なかったのは私の観客としてのちから不足かも、である。

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