カルネ・ウァレ 公演情報 カルネ・ウァレ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.5
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  • 満足度★★★

    観念的過ぎて・・・
    暖房の効きが悪く,身も心も凍えていました。これも演出効果だったのかしらん?冗談はさておき,なかなか心理的にグロな芝居であったが,あまりに観念的に過ぎ,多分こんなことを云いたいんだろうなぁとは思うが,共感することまでは至らなかった。旗揚げ公演ですので次回作に期待しましょう。

  • 満足度

    わかりませんでした
    最初 他の「観てきた」を読ませていただき、ある程度の覚悟はありました。でも 私はどうだろう…と なるべく白紙にして席に座ったのですが…

    人間の原罪とか 形而上学的なことは 私には理解不能ですし 何より演じている女生徒たちの会話が そこらの中学生並にチープなので萎えてしまった感があります。「ゼミの中のディスカッション 」みたいな感じも受けましたし。

    唯一 劇中のお祈りの中に私は 「詩」を感じました。あとは観念的な台詞の応酬、というより 相手の台詞をそのまま繰り返す等 クドさも感じ、残念です。

    音響は すごくよかった。


    私は 肌で 感じとれる芝居が好みなのかもしれません。難解だったのかもしれませんが理解できない自分を恥じてはいません

    次作 どんな感じでしょうか

  • 壊れゆく女の園ー「共同幻想」をみよ
    「祈り とは何なのか?」を、猟奇性を交え、繊細な身体観で描く。まるで、洞窟に住むコウモリが、自らの羽根を岩場にバタバタ当てる空間的狭さだった。幾度となく〈血〉を流しながら、エロチシズムともいえない、 〈強烈すぎる現実〉を提示する女性たち…。不気味さとともに。

    ※バレてないネタバレへ



    私は、パンフレットを読まない主義だ。観劇後、詳しく挨拶文等を読むことはあっても、「これは○○の考えで書いた作品です」といった説明は本来、それぞれの観客が抱くべき権利だから、先入観は植え付けられたくないのだ。
    ただ、今回はパンフレットを事前に読み、110分間 観劇している。主宰の三輪明羅氏は、「この稽古期間中、何度もお祈りをしました。良い役者が集まりますように、稽古場がちゃんと取れますように、皆が怪我をしませんように、お客さんがいっばい入りますように。物心つく前から今までの人生で、数えきれないくらいお祈りをしてきました」らしい。こうした立場を表明しておきながら、冒頭から「女性同士のキスシーン」を設けている。脱帽してしまった。

    結局のところ、〈共同幻想〉で壊れゆく女性の姿を描いた作品だろう。劇団旗揚げ公演より、桜美林大学や日本大学のパフォーマンス公演に近しい印象であったが、哲学めいた台詞は確か だ。


    ネタバレBOX

    ある空間に暮らす若い女性達が、次々殺されていく。「共同幻想」である。たった 一人 残った女性が、孤独に陥った女性が、死神から〈女神〉の称号を受け取る。〈祈り〉の「共同幻想」に死んでいった集団が、その狂いの末、新しいシンボルを創った軌跡である。
  • 満足度★★

    死と祈り!
    女生徒たち(白装束)が革命のようにひとりずつナイフで男性教師を刺殺していく。途中死神もどき(黒装束)が出現し、女生徒を死へと誘う。
    女生徒たちは、一人一人徐々に殺し合っていく。その殺した女生徒の肉を食わされそうになる・・・・
    注釈のとおり、筋を追う芝居ではないのは理解できるが、観る側としては・・・。

  • 満足度★★★★

    カーニバルの本義
     カルネ・ウァレの原初的な形態の持つ始原の人間の持つカオスを舞台化して見せた。その表象の形に衝撃的なシーンを含む、興味深い公演であった。(追記2014.1.1)

    ネタバレBOX

     先ずは祭壇のように設えられた舞台に先生と名付けられた者が目隠しをされ後ろ手に縛られた姿で導かれ、その内包を知る由もない女性徒達の前で己の哲学を述べた後、犠牲の羊よろしく寄って集って刺され死ぬ。ここで重要なことは死と哲学が接していることである。また、意味する所が未だ分からないにせよ生徒達は哲学の産まれてくる場所即ち死を臨む場所に居たことだ。彼女達の過ちは、見ていた者総てが殺戮に参加してしまったことだ。この間違いが後の総ての錯誤・錯乱に通じて行く。結果、異相の者を呼び込み終には、安定層に在った己の世界を混沌層に投げ込んでしまうのだ。以降、この混沌層が世界を呑む。その「形」は奇妙で各々は混沌の中に定規を置こうともがく。もがけばもがくほど深みに嵌ってゆく。丁度、蟻地獄に落ちた蟻そのものだ。そして深みに嵌れば嵌る程、彼女らは、定規によって自らをも他者をも縛ろうとするのである。そして自らの欠点より他者のアラの方がよく目につくものだ。状況は混沌そのものであるのに、状況を無視して各自が其々他人のアラを見付けることによって他者を否定してゆく。一方の極にあるのは無限の自己保存本能である。従って理屈は以下のようになる。自己保存本能によって生きようとする自分は正しく、他者には悪いことしか見ない。こうなれば後はもう狩る者だけが存在する。こうして人々は一人一人が他者を血祭りにあげる存在として機能してゆく、一切の状況を顧慮することもなく何故他者を狩るのかも問わず。
     興味深いのは、世の中が乱れるとファシズムの温床になり、ファシズムが蔓延すると規制が強くなる。その規制によって人々は、理性の保ってきた安定や平和を自ら壊して、喜々として戦いに赴くという歴史的事実である。カルネ ウァレの原初の形が生まれたのは遥かな昔だが、ヒトに進歩はあったのだろうか? 人類等という総称を簡単に用い得るほど、人々は互いに手を繋いでいるのだろうか? このように問い掛けた時、この作品が持つ黝いユーモアが働きだす。

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