東京ブギウギと鈴木大拙 公演情報 東京ブギウギと鈴木大拙」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.4
1-8件 / 8件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    仏教学者で世界の禅者・鈴木大拙(父)と東京ブギウギの作詞家・鈴木アラン(養子)の確執。親子ゆえ交わらぬ思想。

  • 実演鑑賞

    名取事務所が下北沢のB1や「劇」小を出て、芸劇Wのステージに歴史劇にそぐわしい大型の装置を組んだ「鹿鳴館異聞」、今回も本多劇場にて、やはり歴史の時間の重みを体現する装置が組まれ、一つの家族の物語を堪能した。
    戦中戦後に掛けて禅宗を広めた大家である鈴木大拙の血の繋がらない息子アラン(通称)が「東京ブギウギ」の作詞者であった事実、大拙を崇める者にとってこの息子は無き存在としたい不肖の息子である事、登場人物は大拙とアナンの他は長年当家に仕えた女中、アナンの従姉妹にあたる女性、大拙の友で著者の翻訳版などで尽力した斎藤某と、実在の人物5名という最少の構成。スポットは息子アナン。遊戯空間が今年上演した三遊亭圓朝の歴史に埋もれた不肖の息子の話が、重なった。混血児アナンはその熱情で自由を愛し、欲した人物として造形されるが、望んで得られないものを追い求めて行く人生の切なさがどこか滲んでいる。三度の結婚と離婚を経て、世間や縁者からも姿を消した彼と、作者は接点がありつつ結ばれる事のなかったかの従姉妹と、大拙が亡くなった後のある命日に墓前で出逢わせる。純粋さを失わず行動的な彼女の人物像は観客にこの劇にいつしか安心の軸を与えているが、その彼女を見てアナンはつくづく実感したように言う。こんな自分だが一つだけ良いことをした。それは、君を不幸にしなかった事だ、と。ネガティブそのものの言葉が、彼の本心からの喜びの言葉として心に残る。そこには仏教的な、あるいは宗教的な達観、世界に対して価値あるものでありたい根源的な願望(永遠への憧憬)がひっそりと織り込まれている。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    名取事務所様の作品が大好きで、今回も大きな期待を寄せて伺いました。まず舞台のセットが精巧に作られていてお見事でした。
    「東京ブギウギ」の陽気なエネルギーと
    鈴木大拙の「禅」という「静」が対極の要素が見事に交差していました。アランの複雑な生い立ちと父との確執など、登場人物の葛藤を割り切れない人間ドラマとして真っ直ぐ描くからこそ、観客の心に深い余韻が残るのだと感じます。
    名取事務所作品はわかりやすい答えを提示せず、重厚な人間描写を通じて問いを投げてくれる点がとても良かったです。動と静が響き合い、終演後も色々話しながら思考が深る素晴らしい演劇体験でした。
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    今まで鈴木大拙の事を知らなかったが、出演者が5名なので分かりやすく個々の人柄も出ていたのですんなりと観劇することが出来た。
    すれ違いの家族関係だったが奥様がもう少し長生きしていたら大拙とアランの関係も変わったのではと。

    大拙役の鷲巣さん、写真で見る大拙と同じ姿でびっくりでした。
    民乃役の森尾さんの歌声が素晴らしくもっと聞いていたかったなぁ。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    いつもながら、まずセットが無駄なく美しい。この親子についての知識を持たず、教養番組を見たような贅沢感。世界的に影響を与えた父の存在から息子がこのような生き方を歩むことになった確執に、なぜか親近感を持てた。彼らが生きた時代があの頃でなかったら、東京ブギウギは生まれていたのかしら。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    山田奨治氏が2015年発表した著作と鈴木大拙の米国滞在中に記した英文日記を参考資料として堤春恵さんが書き上げた戯曲。2021年の初演が小劇場B1、今回の本多劇場はちょっと広すぎる気も。
    素晴らしい脚本。驚く程、金の掛かった美術。遠近感を付ける為にパースがかった窓が上下に移動して邸宅の一室を表現。左右のアーチ型窓も下りてくる。
    コロニアル・スタイル(植民地様式)とは欧州諸国が植民地に祖国の様式で建物を建てたことが語源。明治時代、外国人居留地で幾つも建てられ日本の建築に大きな影響を与えた。シンメトリーな外観と大きなベランダ、アーチ型の玄関ポーチ等が特徴。

    昭和13年(1938年)、京都・大谷大学で教授として働く鈴木大拙(鷲巣照織〈てるお〉氏)68歳の三階建ての屋敷。大拙の信奉者である鎌倉の古美術商・斉藤利助(吉野悠我氏)が製本化された『禅と日本文化』英文初版の書籍を届けに来訪。応対するのは住み込みの女中である“おこの”(新井純さん)。アメリカ人妻のビアトリス(もしくはベアトリス)は体調不良で東京の聖路加国際病院に入院中。息子の同志社大学生・鈴木アラン(西山聖了氏)。また早逝した甥の一家を養っていた大拙は甥の遺児の独りである鈴木民乃(森尾舞さん)を住まわせていた。

    鷲巣照織氏の歩き方が禅僧のようで味がある。口の悪い新井純さんは最高、MVPか。西山聖了氏が「Get Out and Get Under the Moon」をミュージカル映画のように歌い踊り始めるシーンの演出が冴える。そこに日本語歌詞「月光価千金」でユニゾンを被せる森尾舞さん。これぞ!というシーン。西山聖了氏のキャラは伊勢谷友介や中居正広の悪戯っ子っぽさも感じた。

    素晴らしい作品、この水準の作品をもっと観たい。

    ネタバレBOX

    この物語の語り手である鈴木民乃のモデルは『大叔父 鈴木大拙からの手紙』を著した林田久美野。入院中のビアトリスはこの翌年亡くなる。

    結婚に反対されたことに腹を立てたアラン、日米学生会議で自分がスピーチした内容を大拙が『禅と日本文化』で剽窃していると疑義を呈す。

    親猫が子猫の首根っこを咥えて運ぶ様子を鈴木大拙は浄土真宗の「他力」とだぶらせた。その逸話を踏まえての猫の話なのだろう。登場しない猫達のエピソードが物語を支える。

    第二場は昭和23年(1948年)、神奈川県鎌倉の臨済宗円覚寺派大本山である円覚寺塔頭の正伝庵に住まいを移した鈴木大拙78歳。アランと池真理子との結婚式に円覚寺を借りるなど尽力した。大ヒット曲「東京ブギウギ」の作詞家として人生絶頂期のアラン。だが親子はその「東京ブギウギ」の歌詞についてさえ争うことに。

    鈴木大拙の養子であったアラン。後継者として育てたつもりがアル中の放蕩無頼、結婚離婚を繰り返し、到頭暴行監禁した未成年女性が逃げようと飛び降り自殺未遂のスキャンダル。社会的生命を絶たれた。

    それでも民乃にとってのアランは最後まで憎めない青年だった。どうしようもない駄目な奴の筈なのに何か心の何処か奥底に綺麗な純粋なものを抱えたような、そんな男だったのだ。

    今作に物足りなさがあるとするならば、猫達の物語と大拙の説いた禅思想の魅力についてだろう。世界中が夢中になる程、禅の概念は人間の意識の在り方を突いた。「直指人心(じきしにんしん) 見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」=外部から情報を求めるのではなく、自身の内部から答えを導き出せ。悩み苦しむ者達に自分自身の心と向き合うしかないと説いた。そこに他人は介在しない。あと二つ位、盛り上がるシーンがあれば圧倒的作品になっただろう。

    ※鈴木大拙(だいせつ)と西田幾多郎(きたろう)は同じ年(1870年)に石川県に生まれ、金沢の第四高等中学校予科で同級生となる。以来、西田幾多郎が先に亡くなるまで60年近く生涯の親友として過ごした。世界で最も評価されている日本人仏教学者であり、禅の思想を英語で国際的に広めた功績者、鈴木大拙。日本人による初の近代哲学書を世界に発信した西田幾多郎。西洋哲学と東洋の禅や仏教思想の融合を試みた。この二人の行き着いた地平は同じなのではないか。

    西田哲学。「主客未分(しゅきゃくみぶん)」。自分が月を見ている時、人間は見ている自分(主観)と見られている月(客観)を分けて考える。だが動物のようにただそこにいるだけだと仮定すると、体験するものは只の一つ。世界だ。全ては風景として存在する。それを「純粋経験」と呼ぶ。自意識がフィルターを掛けて邪魔をしているだけでそれを取り払えば世界は只の一つ。分け隔てるものはない。更に西田はこの世に実在するのは意識だけだと説く。全ての意識は「宇宙」の神経の一つだと。「宇宙」は一つの生命体であり、皆は一つの原理を完成させようとしている存在であると。「宇宙」を構成する一つとして取るべき行動を取ることこそが善。「自由即必然」。在るべき自分を知り、在るべき自分になっていく。それは欲望も義務感も超越した境地。自意識を全て捨てて無になった時、そこに流れ込んでくるものこそ「真の自己」。

    鈴木大拙の説いた「即非の論理」=自分は自分ではないが故に自分である。「公案」=論理では解けない無理難題。自分なんてものはこの世の何処にもいないのだという気付き=悟り。

    結局、仏教は無我を説く。自分なんてものはそもそもが誤解。生きていく上で脳が拵えたその場凌ぎの幻想シミュレーター。実は何処にもない。そのことを知り、感じた時にいろんな執着が軽くなりふっと楽になれるのだろう。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    すばらしかったです。鈴木大拙のことはスティーブ・ジョブズ絡みで知っていたのですが、その息子さんのアレンについて知るいい機会となりました。父親と息子の確執がよく描かれていました。私も父親かつ息子ということもありすごく響くものがありました。ただ、私は実子でありアレンのように養子ではないのでアレンの気持ちの100万分の1もわかってないでしょうけど。ステージも演出も演技も最高でした。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

     尺115分、休憩無し。舞台美術が美しい。華4つ☆

    ネタバレBOX

     登場する人物は総て実在した人間である。(即ちモデルが存在した)描かれる住居(京都・鎌倉)の建物も現存している。殊に重要なことは、敗戦直後の日本で大流行した笠置シヅ子の唄った「東京ブギウギ」の歌詞を書いたのが「息子」のアランであったということだ。そして大拙は二番の二行目に記された歌詞の一節を大変に嫌った。アランの見解とは真っ向から対立したのである。
     因みに何故、禅の哲学の大家として知られる大拙の息子の名が外国人名・アランであるのかを不思議に思う読者も居るだろうから、一応説明しておく。大拙の妻は彼がアメリカに渡って出版社に勤務し禅の思想を英訳していた頃、恋に落ち結婚したビアトリスがアメリカ人であったことに関りがある。といっても父と息子の決定的な断裂は、第一段落で書いた二人の対立に表されている通り決定的で、ある意味避けられなかった断裂でもあった。アランは2人の実子ではなかったのである。アランは本当の母が誰であるかを生涯知ることも無かった。而も時代は太平洋戦争前夜、ハーフが極めて少なかった時代の日本である。父・大拙は禅の思想を英訳し英文読者を獲得したことで世界的権威としてもてはやされる大哲学者、妻もその大拙と理想を共に追い掛け夢を結んだ外国人として一般日本民衆には高嶺の花。然るにその息子は間子であり、而も実子に非ず、子供時代から問題行動を起こしてばかりの、顰蹙を買いこそすれ、評価するに足りないとされたのは、dépaysementの苦悩を知らぬ人間、大拙・ビアトリスのように純粋で理想を追求することを自らの天命とし邁進できるラッキーフューと大多数の海外の実情を知らぬ日本人にとっては当然の成り行きであったかもしれない。 因みに自分がここで用いているdépaysementという単語は、その存在の根底が毀損されていることでアイデンティファイしようにも自らの核を自らの存在そのものの歴史性に求めることが出来ずに違和感と居心地の悪さに常時苛まれる者の在り様を指す。これが「東京ブギウギ」二番の二行目の歌詞で歌われていることに大拙が猛反対した理由となった訳である。つまり、この歌詞がこのようであったのは、アランが往時世界の強国の租界があった上海で暮らし、生まれて初めて間子である自分がdépaysementの苦界を気に病まずに済んだことがあったであろうことは確実だ。
     この辺りの微妙な心理表現をこの大きさの箱で充分観客に伝えることは至難の業。この点が今回上演の難しさに在るように思う。何となれば、演劇の舞台という物は、役者の身体・台詞の全量と観客の想像力の交感関係に掛かっているからである。

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