東京ブギウギと鈴木大拙 公演情報 名取事務所「東京ブギウギと鈴木大拙」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    山田奨治氏が2015年発表した著作と鈴木大拙の米国滞在中に記した英文日記を参考資料として堤春恵さんが書き上げた戯曲。2021年の初演が小劇場B1、今回の本多劇場はちょっと広すぎる気も。
    素晴らしい脚本。驚く程、金の掛かった美術。遠近感を付ける為にパースがかった窓が上下に移動して邸宅の一室を表現。左右のアーチ型窓も下りてくる。
    コロニアル・スタイル(植民地様式)とは欧州諸国が植民地に祖国の様式で建物を建てたことが語源。明治時代、外国人居留地で幾つも建てられ日本の建築に大きな影響を与えた。シンメトリーな外観と大きなベランダ、アーチ型の玄関ポーチ等が特徴。

    昭和13年(1938年)、京都・大谷大学で教授として働く鈴木大拙(鷲巣照織〈てるお〉氏)68歳の三階建ての屋敷。大拙の信奉者である鎌倉の古美術商・斉藤利助(吉野悠我氏)が製本化された『禅と日本文化』英文初版の書籍を届けに来訪。応対するのは住み込みの女中である“おこの”(新井純さん)。アメリカ人妻のビアトリス(もしくはベアトリス)は体調不良で東京の聖路加国際病院に入院中。息子の同志社大学生・鈴木アラン(西山聖了氏)。また早逝した甥の一家を養っていた大拙は甥の遺児の独りである鈴木民乃(森尾舞さん)を住まわせていた。

    鷲巣照織氏の歩き方が禅僧のようで味がある。口の悪い新井純さんは最高、MVPか。西山聖了氏が「Get Out and Get Under the Moon」をミュージカル映画のように歌い踊り始めるシーンの演出が冴える。そこに日本語歌詞「月光価千金」でユニゾンを被せる森尾舞さん。これぞ!というシーン。西山聖了氏のキャラは伊勢谷友介や中居正広の悪戯っ子っぽさも感じた。

    素晴らしい作品、この水準の作品をもっと観たい。

    ネタバレBOX

    この物語の語り手である鈴木民乃のモデルは『大叔父 鈴木大拙からの手紙』を著した林田久美野。入院中のビアトリスはこの翌年亡くなる。

    結婚に反対されたことに腹を立てたアラン、日米学生会議で自分がスピーチした内容を大拙が『禅と日本文化』で剽窃していると疑義を呈す。

    親猫が子猫の首根っこを咥えて運ぶ様子を鈴木大拙は浄土真宗の「他力」とだぶらせた。その逸話を踏まえての猫の話なのだろう。登場しない猫達のエピソードが物語を支える。

    第二場は昭和23年(1948年)、神奈川県鎌倉の臨済宗円覚寺派大本山である円覚寺塔頭の正伝庵に住まいを移した鈴木大拙78歳。アランと池真理子との結婚式に円覚寺を借りるなど尽力した。大ヒット曲「東京ブギウギ」の作詞家として人生絶頂期のアラン。だが親子はその「東京ブギウギ」の歌詞についてさえ争うことに。

    鈴木大拙の養子であったアラン。後継者として育てたつもりがアル中の放蕩無頼、結婚離婚を繰り返し、到頭暴行監禁した未成年女性が逃げようと飛び降り自殺未遂のスキャンダル。社会的生命を絶たれた。

    それでも民乃にとってのアランは最後まで憎めない青年だった。どうしようもない駄目な奴の筈なのに何か心の何処か奥底に綺麗な純粋なものを抱えたような、そんな男だったのだ。

    今作に物足りなさがあるとするならば、猫達の物語と大拙の説いた禅思想の魅力についてだろう。世界中が夢中になる程、禅の概念は人間の意識の在り方を突いた。「直指人心(じきしにんしん) 見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」=外部から情報を求めるのではなく、自身の内部から答えを導き出せ。悩み苦しむ者達に自分自身の心と向き合うしかないと説いた。そこに他人は介在しない。あと二つ位、盛り上がるシーンがあれば圧倒的作品になっただろう。

    ※鈴木大拙(だいせつ)と西田幾多郎(きたろう)は同じ年(1870年)に石川県に生まれ、金沢の第四高等中学校予科で同級生となる。以来、西田幾多郎が先に亡くなるまで60年近く生涯の親友として過ごした。世界で最も評価されている日本人仏教学者であり、禅の思想を英語で国際的に広めた功績者、鈴木大拙。日本人による初の近代哲学書を世界に発信した西田幾多郎。西洋哲学と東洋の禅や仏教思想の融合を試みた。この二人の行き着いた地平は同じなのではないか。

    西田哲学。「主客未分(しゅきゃくみぶん)」。自分が月を見ている時、人間は見ている自分(主観)と見られている月(客観)を分けて考える。だが動物のようにただそこにいるだけだと仮定すると、体験するものは只の一つ。世界だ。全ては風景として存在する。それを「純粋経験」と呼ぶ。自意識がフィルターを掛けて邪魔をしているだけでそれを取り払えば世界は只の一つ。分け隔てるものはない。更に西田はこの世に実在するのは意識だけだと説く。全ての意識は「宇宙」の神経の一つだと。「宇宙」は一つの生命体であり、皆は一つの原理を完成させようとしている存在であると。「宇宙」を構成する一つとして取るべき行動を取ることこそが善。「自由即必然」。在るべき自分を知り、在るべき自分になっていく。それは欲望も義務感も超越した境地。自意識を全て捨てて無になった時、そこに流れ込んでくるものこそ「真の自己」。

    鈴木大拙の説いた「即非の論理」=自分は自分ではないが故に自分である。「公案」=論理では解けない無理難題。自分なんてものはこの世の何処にもいないのだという気付き=悟り。

    結局、仏教は無我を説く。自分なんてものはそもそもが誤解。生きていく上で脳が拵えたその場凌ぎの幻想シミュレーター。実は何処にもない。そのことを知り、感じた時にいろんな執着が軽くなりふっと楽になれるのだろう。

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    2026/08/28 20:53

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