動機/デモ隊 + ショートコント4作 公演情報 動機/デモ隊 + ショートコント4作」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.7
1-3件 / 3件中
  • 満足度★★★★

    無題724(13-149)
    13:00の回(晴、風強い)。12:00受付(整理券あり)、ロビー開場、12:30開場。森下さんが出ていらっしゃるのでみにきました。そうでなければ「ギィ・フォアシィ氏のお芝居はみることないだろうな...」なんて思いながら当パンを眺めていると「チェロを弾く女(2011/4@新宿ゴールデン街劇場)」..もそうだったのですね。
    短編2作+ショートコント4作+コンクール優秀賞1作。13:05前説(アナウンス)、開演~15:48終演。外国の戯曲モノはまずみないので貴重な機会、また「A.T.ラボ」、初めての役者さんたちのお芝居をみることができました。

    ネタバレBOX

    比較的ゆったりと進んでいたので、ペースをつかむのに少しかかってしまいました。移動した「バス亭」に紙片が貼り付けられていることに気づいていましたが、あれだと雨にぬれたりするのではないかと思ったり、ベンチの男性が(肝心な部分を)手に取ってみせたときの、待っていた二人の紙片に対するリアクションがもっとあるとわかりやすかった。
  • 満足度★★★★

    気の利いた作品群
     オープニングでは男1人、女1人。女は肘掛椅子に座ってギィフォワシーの戯曲を読んでいる。男が訊ねる。何を読んでいるのか、とか、内容はどうだ、とか、誰の作品だ、とか、どんなジャンルなのか、とか。ひっきりなしに質問を浴びせられながらも女は応えてゆくのだが、非常に苛立っている。だが、総ては台本に書かれたことであることが明かされる。即ち現在上演されていることは、総てシナリオに沿った演技なのである。

    ネタバレBOX

      普通、演劇は上演される作られた世界を本当の世界と了解し合うことから始まる。つまり制作サイドと観客サイドは嘘の世界を真実の世界と読み換えるという“嘘の共犯関係”に入るのである。幕が開くとは、そういうことだ。その上で、嘘の中に現れる葛藤関係を通して人間的真実を求めるのである。作る側は、無論、その為に大変な努力をする。その努力の一つが、葛藤を通じた転移である。この作業を通常メタ化と呼ぶ。
     オープニングで演じられるこの極めて短い作品「最初の読書」で、ギィは、少し捻ったメタ化と種明かしをしているのだ。今回の公演では、「動機」(1971年)と「デモ隊」(2012年)の2作をメインにしつつも、昨年フランスで出版されたコント(短編集)を上手に配して演劇効果を高めた。この演出は気が利いている。因みに上演スケジュールは以下の通りである。
    1「最初の読書」2「動機」3「いらだち」4「ドジな話」5「デモ隊」6「死はピン1本で」
     「最初の読書」については、既に述べた。「動機」のテイストは、ジャン・ジュネの「Les Bonnes」やサドを感じさせる。最後に演じられた「死はピン1本で」は、短編とは言いながら、サドを彷彿とさせる内容で、ギィの筆力を感じさせる。針のイメージで言えば、谷崎の「春琴抄」の鮮烈なイメージを思う読者もいるかも知れない。だがこの作品の凄い所は、その用い方が、極めて執拗であり、受難者の苦悩をできる限り長引かせる所にある。無論、受難を受ける人物もまた異様な趣味の持ち主であり、この受難を甘んじて受け入れるばかりか喜んでいる節さえある。同時に、刑を執行する女は、この行為の最初から、最も、効果的且つ残虐な方法として、また己のサディスティックな心象の満足と被験者の勘違いを利用することをも意図した上で、足のつま先から、除々に上へ、刺す位置を移動してゆく。刺す針は1本でもめった刺しである。男自慢の局部への攻撃も為される。それも、其々の場所に針を刺す時、彼が弄んできたたくさんの女の名を挙げながら、一刺し、一刺し、刺し続けるのである。結果、彼の呼吸と鼓動は止まる。彼女はそれを冷静に確かめる。この辺りの凄みが、最近、日本の作品には、少ないように思う。
     「デモ隊」について言えば、この作品の背景にあるのは、サルコジが推し進めたグローバリゼイションに反対した移民の影である。日本でも、都市近郊で、車を燃やすなど日本では“ちょっと凄いね”と感じるであろう、暴動やデモが多発した時期を覚えておいでの読者も多かろう。デモ参加者の多くは、移民、或いはその第2世代、第3世代と考えられるかも知れない。無論、フランスの知識人や、ラディカルで自由な市民も含まれていよう。フランスはそういう国である。だが、もし、移民やその第2、第3世代の多いデモであったとしたら、この作品で描かれたことの意味は、現代ヨーロッパに於いて、益々、大きな意味を持つ。否、日本を含め、経済を牽引する総ての国々に於いて妥当性を持つと言わねばなるまい。世界中で経済を牽引する国の総てが、より安い労働力を求めてそのシステムを構築しているのはまぎれもない事実である。而も、その経済優先政策によって、彼らに対する搾取は公然と認められているのみならず、合法化されているのである。合法化とまでいかなくとも、彼らは同じ労働をする、牽引する側の国民と同じ条件では働いていない。これが、差別でなくて何だろうか? 因みに差別をここで定義しておこう。差別とは、生まれや生まれた地域、地域特有の文化など、この世に生まれた個人が、その責任を問われる必要の無い偶然の条件によって、その個人が生活するに当たって関係する他者から、不利益な扱いを受けたり、不当な迫害、嫌がらせなど人間としての尊厳を踏みにじるような扱いを受けることである、と。誰もが知っているように、人は親を選んで生まれることはできない。宗教的には、前世の行いの結果という考え方があるが、自分は無宗教者、無神論者なので、この立場は採らない。従って、差別は不条理(absurde)である。この不条理ということばには、馬鹿らしい、非論理的などの意味も含まれていることに注意すべきだろう。従って、常識的倫理に従えば、差別する側に立つ人間は、不合理で非論理的、即ち、余り優秀な頭脳は持ち合わせていない方々、ということになろう。でなければ、人間という概念にはそぐわない存在か、敢えて愚か者の振りをして、自らよりも更に知恵に欠ける人々を毒牙にかける、程度の低い悪党ということである。こういう手合を下司と言う。態々、解説する迄もないか。日本の政治屋、官僚、経済人、御用学者には、この手の奴バラが多すぎる。
     森下 知香の、普段とはちょっと異質な、可憐な悪女ぶりもファンには見逃せまい。(追記6.19)
  • 満足度★★★

    歴史を感じます
    やはり、普段観ている日本のお芝居とはセンスが違いますね。
    大人向けかなぁ。

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