東京ノート 公演情報 東京ノート」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.9
1-10件 / 10件中
  • 満足度★★★★

    観客との
    観客との境界線をなくした演出はとても面白かったです。真横で会話が行われたりするというもはや客自体がキャストにすらなっているような気持ちになりました。その点では観客に厳しい舞台にも思えました。こまばアゴラがタイムマシーンのような宇宙船の中のような感覚に陥り、2024年にタイムスリップしたような気分に、博物館の映像でタイムスリップするあのコーナーのようにも思えたりもしてよかったです。多田さんの演劇LOVEをひしひしと感じました。演劇の枠組みを一度取り外してから再構築したような、演劇の最先端な感じがぷんぷんしました。
    その中での平田オリザさんの戯曲の強さは凄いなと再認識しました。
    勉強になりました。ありがとうございます。

  • 満足度★★★

    青年団の方が好き
    ホンの素晴らしさはきちんと伝わってきたのですが、「本家」と比べると芝居に物足りなさが残りました。
    工夫を凝らした演出については、別に悪いとは思わなかったですが、個人的には琴線に触れることがなかったですね。演劇を「体感」できるかどうかは、結局のところ芝居の出来によって決まるというのが、私の意見です。

  • 満足度★★★★

    濃密さと工夫
    オリジナルは観ていませんのでその比較は出来ませんが、空気感がネットリと重く、昨今の政治状況もあり本当に近未来の話に、リアルさが非常にかもし出されてました。
    また、鏡とライブカメラを多用し、観客の巻き込みを図ったのは結果的に良かったのではないでしょうか。

  • 満足度★★★★★

    東京デスロック「東京ノート」観ました
     千秋楽を観ました。戯曲は既読、舞台は観た事なし。東京デスロックは「再/生」静岡・袋井公演以来、多田さん演出は「義経千本桜」横浜公演以来です。

     美術館公演と対極の、あまりに予想外の空間、そして観劇姿勢。しかし慣れれれば、ここが美術館であると思えてしまう。壁に無数の絵がかかっていると想像できる不思議さ。
     文字通り地に足のつかない感覚が、夢の中のよう。あやふやな境界、空間と一体になる観客。ひとの存在やことばの肌触りにも敏感になる場。

     多数のベクトルの視点(登場人物のみならず、観客の観る映像、鏡、移動可の客席や「見えない」状態も含めて)が凝縮された空間では、どうしても見えない事もあるし、見ない事を選択することもできる。 
     私たちはなにを見て、なにを見ていないのか。目の前の出来事に対しても、世界に対しても。

     音楽、照明の使い方も、ハデに見えて非常に繊細。感覚的にも思考的にも、万華鏡に入ったような空間体験でした。この、対極に見える空間によって際立つ、もとの戯曲の力強さも思い知った…


     ※ちなみに、千秋楽でやけに目についたであろう観客、第一位は杉原邦生さん、第二位は私です(汗)

  • 満足度★★★

    どちらかというと
    不満足。映像と鏡は、役者や客のいろんな角度からの表情が窺えてこれは舞台が特殊だったゆえ効果をいかんなく発揮していたと思う。とりわけ役者がそのアングルを変えたりするライブ映像は芝居に確かな拡がりを加味していたと思う。音楽と照明は美術館のロビーにはそぐわないというかありえないくらいのやかましさとまぶしさで、これの意図がまず読めないし気にいらない。私としては音楽はかすかに聞こえるくらいの交響曲で照明もモノトーン調の落ち着いたもので観たかったと思うのは、やはり特殊な舞台ゆえ台詞が聞こえにくかったり頻繁にまぶしく感じることが多かったから。オープニングとエンディングは間延びした。

  • 満足度★★★★★

    この刹那にあることのいとおしさ
    初日に観劇。17日にもう一度観ています。

    肌で感じるような距離から、劇場空間、壁面、画面に至るまで、
    様々な表現で満たされて。

    それらが、ひとつの時間の風景として束ねられ、
    よしんば、そこにあるものがビターなテイストであったとしても、
    劇場に置かれた、戯曲の世界が、
    すこし切なく、でも満ちて、とてもいとおしいものに感じられました。

    ネタバレBOX

    青年団の東京ノートは何度か観ていて、
    一番最近は、この夏の東京都美術館での公演を。
    物語の秀逸に加えて、
    舞台の奥にあるホワイエ的な長い空間に醸される
    美術館に流れる時間がとても印象に残っていて。

    今回は劇場での公演。
    でも、劇場内がほぼ全面舞台&全面客席。
    場内に足を踏み入れて、その風景に驚き、
    自分の居場所にかなり迷う。
    場内の上方に掛けられたスクリーンには
    英語で好きなところに座れと書いてあるけれど・・・。
    どちらの回も早めの順番での入場だったので、
    先に入られた観客に習って、
    とりあえずはベンチ的な部分の隅のほうに座る。
    やがて観客に混じって、
    役者たちも場内に入り込んで・・・。
    壁際から床(純白でふかふか毛足の絨毯仕様)の上にも人が満ち、
    周りをとりかこむスクリーンやディスプレイの
    ルーティンの画像や音楽が変化して、
    DEATHLOCK版東京ノートの舞台が呼吸を始めます。

    役者達が映像からの問いかけに答える態で
    ひとりずつ立ち上がり、自らのことを語り始める。
    様々に、場内を巡りはじめ、
    ひとつずつ語られていたプロフィールの声が重なり
    場内全体に広がり、
    その刹那のTOKYOが織りあがる。

    さらには映像で近未来に時が定まり
    定まった時間と場所に
    戯曲に綴られた世界が紡がれていきます。

    物語自体の流れも、台詞も、
    定められた所作も
    戯曲に対して忠実に演じられていて。
    役者の演技自体が、戯曲から乖離しているわけではないのです。
    でも、青年団公演での「東京ノート」が
    美術館という場所のリアリティに映えて
    観る側を浸潤したように、
    この公演にも、観る側を戯曲の世界のもうひとつ内側にまで導く
    様々な工夫が仕掛けられていて。

    複数の会話が観客を含めたミザンスの中に交錯するときの臨場感、
    企てを持ったロールの間での会話の距離、
    観客が風景の一部となり、あるいは、
    観客の座る場所によって、
    舞台上であれば晒される光景に
    よい意味での異なりや制約が生まれ、
    そのことで会場全体に編まれていく物語に、
    観客と対峙する舞台とは異なる
    方向の感覚や立体感が生まれる。
    周辺の映像たちも、時に会場の光景で場の広がりを作り
    ロールたちの表情や、
    さらにはそのシーンにかさなる絵画のイメージで、
    刹那の風景に奥行きとなるニュアンスを織り込んで。

    登場人物たちの距離の伝わり方にしても、
    織り込まれた世界情勢や、その中でのこの国の空気の肌触りにしても・・、
    この表現の在り様や工夫だからこその
    戯曲に描かれた言葉と観る側に訪れるものの
    繫がり方とふくらみが生まれていくのです。、

    中でも一番目を瞠ったのが、
    元家庭教師と生徒だった女性の会話。
    「絵を観るっていうのは難しいね」
    「・・・」
    「ものを見ている画家がいて、それをまた見てるわけだから」
    という戯曲の台詞をそのままに、
    男はその場に置かれていたカメラで女をとらえるのです。
    その姿に、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」のイメージが重なって。
    カメラに向かい映像に取り込まれる役者の姿と
    映し出される画面の姿、
    さらには、フェルメールから解かれた彼女自身の表情が、
    一つの絵画の構図となって画面に取り込まれるとき、
    言葉や概念ではなく、体感としてその台詞の意味が
    観る側に伝わってくる。
    絵を見るのは嫌いではないので、
    絵から語りかけてくる奥行きのようなものを感じることは
    これまでにもあったけれど、
    でも、その絵に至るベクトルで絵画に接したしたことはなくて、
    目から鱗が落ちた気分。
    でも、そのことも、突出するなく、
    場の時間と、二人の物語に綴じ込まれて。

    かくの如く、戯曲に紡ぎこまれたニュアンスが、
    演出や役者の創意で、いくつも、いくつも、
    文字につづられた言葉を超えて
    観る側に解き放たれていく。
    家族の風情、男女の想い・・・。
    科学の歩み、遠くて近い戦争、
    間接的に、でもはっきりと伝わってくる時代の空気、
    その空間、そしてそこにある人が紡ぎあげる刹那の広がりと、
    時間の流れ。
    冒頭と最後の映像や空気には、
    戯曲の置かれた時間と場所が示され、
    その外側を歩む年代と広がりの普遍が描かれていく。
    様々な風景に織り上げられた舞台の時間と
    そこに至り、そこから歩み出す時への、
    俯瞰が生まれて。

    観終わって、戯曲の世界に加えて、
    無意識のうちに物語の内にある自らの、
    その場にあることの感覚に深く心を捉われておりました。
    終演の場の空気に、
    どこか切なくてほろ苦いものもありつつ、
    自らの立ち位置というか居場所のようなものがあって、
    不思議な諦観と希望と居心地のよさを感じたりも。

    東京都美術館の観劇時にも感じた、
    この戯曲の奥行きの深さに改めて心を惹かれ、
    そのなかにある、
    この演出だからこそ受け取ることができた多くのものに
    心を奪われたことでした。

    *** ***

    これからご覧になる方は、綺麗な靴下をはいていくことをお勧め。
    それから、荷物もまとめやすいようにして、
    さっと羽織ることのできるものを一枚携えていったほうがよいかも。

    場内は土足厳禁・荷物の持ち込みも難しいので。
  • 満足度★★★★

    とにかく演出が素晴らしい
    東京ノートは初観劇でしたが、もちろんあまりに有名なお話なのである程度は内容について知っていました。今回は「観ておかねば」と言う意識が強かった上での観劇で、正直に言えばそこまで大きな期待も抱いていなかったのですが・・・・。とても素晴らしかったです。斬新な演出が空気を支配していたため、集中も途切れることなく最後までのめり込むことができました。劇団員さんたちはさすがですね。次回公演も期待します。

  • 満足度★★★★

    斬新っっ
    神の視点で見る東京ノート。鳥瞰的に世界を眺める新鮮な感覚。上演時間2時間半と長めだけど、魅せられて堪能。どうやって見ると体勢を楽に見れたのかな、立って見てる人もいて、なるほどと思いました。

    ネタバレBOX

    靴を脱いで劇場の中へ。一面フワフワのカーペット、劇場内に複数のカメラが設置され、開演前の劇場内の現在の様子や映像が、スクリーンに映し出される。スクリーンも複数設置されていてどの位置に座っても見えるようになっている。

    ギリギリに着いたので劇場入ってすぐの空気清浄器が置いてある辺りで見ました。この位置だと、カメラを通さなくても、ほぼ全シーン台詞を喋る役者さん達が見れました。

    スクリーンに映る映像は、恣意的に操作されて、決して見たい様には見えない。けれど代わりに、自分の座っている位置では見えない角度から劇風景が見えたり、目の前で役者さんが話していてもカメラを通して見ると別の見え方がする。無意識的で見ていても、俯瞰で劇を楽しむ空間になっていました。音楽もずーっと流れていて、役者さん達の演技や距離感も「青年団の東京ノート」と全然違って、その不自然さが登場人物の心や感情を体現してるように見えました。劇中に、スクリーンに英語の問いかけが幾つか映し出されますが、冒頭は具体的に自分や出演している役者さんに落とし込んで主観的に考えて見てましたが、ラストはもっと普遍的に人間(日本人)の営みに思いを馳せるような見え方がしました。スクリーンに9999と数字が並んだ時に、当然自分は生きていないんだけれど、当たり前のように9999年にも人が生きていて、同じような事を考えたり悩んだりしていて当然といった、それを当たり前だと感じるような個人を超越した神の視点がこの東京ノートに溢れているのかな、と思いました。そして2013年を生きる自分自身の当たり前の日常にもスポットライトが当たったような錯覚を覚えました。

    観劇後にシアターガイド読みましたが、自分の感じた見方と違っていてなるほどと思いました。3・11の事は考えなかったなぁ。創り手の意図とは真逆に解釈して楽しんでしまったかもしれません。
  • 満足度★★★★

    TOKYOが際立つ演出
    私が「東京ノート」の舞台を観るのはこれが3回目だが
    これほど「東京」を意識して観たのは、このデスロック版が初めてだと思う。
    そして更地(?)になったアゴラ劇場を見たのも初めてであった。
    デスロック4年ぶりの東京公演は、「ここ東京で」演じ、観ることを強く意識させる舞台だった。

    ネタバレBOX

    貴重品以外の荷物を預け、靴を脱いで劇場への階段を上がる。
    なんで靴脱ぐの?と思いながら劇場へ入った途端「へー!」と声を上げてしまった。
    真っ白なふわふわ毛足の長いじゅうたんが敷き詰められ
    ベンチにはもう座る余地がなくて、大勢の人が絨毯の上に思い思いの格好で座っている。
    どこで芝居するのかなと思うほど、特に空いているスペースもない。
    やがて役者さんが観客の中に混じっているのに気づく。
    ミラーボールが下がり、大きなスクリーンや鏡が私たちを見下ろすように設置されている。

    オープニング、ひとりの役者さんが立ち上がって出身地について語り始める。
    次々と役者が立ち上がり、出身地とそこでの思い出などを語る。
    同時多発的に発信される出身地情報は、「場所」だけははっきり聴きとれるように
    あとは尻つぼみに声が小さくなり、やがて途切れ、また続きが始まったりする。
    客の間を、敢えて狭いところを選ぶように縫って移動しながら…。
    やがてスクリーンに映し出された2013年の文字が近未来に変わる。

    演出の多田淳之介さんが登場して
    「どうぞ好きな所へ自由に移動しながら観てください」と言った。
    そして、ヨーロッパで戦争が起こり貴重な絵画が東京に避難して来ているという
    その美術館で、日本人の日常が語られ始めた・・・。

    地球のどこかで大きな戦争が起こっている時に
    東京の美術館では、めったに見られない絵画を鑑賞しつつ兄弟が再会しようという
    平和でのどかな集まりが計画されたりしている。
    絵画好きな長女(松田弘子)を中心に久しぶりの再会を喜び合いながら
    実は親の介護、夫の浮気など様々な問題を抱えた人々が集う。

    東京デスロック主宰の多田淳之介さんは、この4年間東京公演を休み、
    埼玉県富士見市の市民文化会館「キラリ☆ふじみ」の芸術監督として活動し
    同時に東京以外の場所とネットワークを育んできた。
    この間彼がやってきた“さして芝居に関心のない人々を劇場に呼ぶ”ということ
    そのための様々な試みが集約されているような東京復帰公演だった。
    興味を惹かれ、驚き、参加することで、演じる側と観る側が一体となる空間。
    「なんだろうねぇ?」「これ、どうなるんでしょう?」という暗黙の
    客同士のゆるいコミュニケーションから始まって
    途中見えにくいからと移動したり、足が疲れて投げ出したり自由な感じが新鮮。

    ただね、ちょっと疲れました・・・。
    居酒屋だって掘りごたつ形式が主流でしょ。
    床に座った位置から役者さんの表情を見上げる、高い所のスクリーンの文字を見る、
    その動作に首が疲れて途中下向きたくなるし、
    やっぱり椅子に慣れた生活していると、アフタートークも含めて2時間強
    床に座る姿勢がちと辛いかな。
    背もたれのないちっちゃいスツールでもいいからあったら嬉しいと思った。
    でもあの自由度の高さと白いじゅうたんの触り心地は最高で、横になりたかったくらい。

    青年団の松田弘子さんは、前回上野の美術館での公演に引き続き長女役で
    安定感と同時に“市井の暮らし”を感じさせてとても好き。
    この人の日常感が、戦争している世界とのギャップを際立たせる。

    多田さんはこの4年間“大きくなりすぎた地方都市”としての東京を見て来たのだろう。
    デスロックの東京での活動は、劇場を一度更地にするところから始まった。
    名作と言われる作品でも、余白では気負いなくこれをやっちゃうところが素敵。
    多田さん、ふじみもいいけどこれからまた東京も楽しみが増えました。
  • 満足度★★★

    見ておいていい作品
    舞台、その有り様自体が異色の芝居でありました。
    驚いたという以上に、僕は愉快でしたね。こういうやり方もあるんだなと。
    評価の分かれる演出でしょうが、僕は支持したいと思います。
    (ちなみに、当日券は余裕があるそうです)

    ネタバレBOX

    靴を脱いで入場すると、そこは奇妙な空間。
    真っ白な毛足の長い絨毯、中央にベンチが三つ、壁は黒をベースに所々に白い四角の模様。
    三方の壁には、三つの大きさの異なるスクリーンとモニター、二つの大きな鏡。
    天井にはミラーボール。
    背後には、モダンアートのオブジェ、美術関連のパンフレットが置かれた棚、屑籠。
    客は好きな場所に座っていいという。ここで芝居・・?
    見回していると、客に混じって役者がいるのに気がつきました。なにが始まるのか?
    場内が暗くなり、スクリーンとモニターに英語で様々なメッセージが流れ始めます。Where are you from ? 音楽が止み、役者たちが立ち上がると、自分の出身地や上京した経緯を語りながら彷徨います。
    これは戯曲にはないプロローグです。本編でも同様に、役者たちは客の合間をぬって移動し、ベンチに座ったりしながら演技をすることになります。
    プロローグの終りに、演出家が登場して、上演中も好きな場所に移動して構わないと言う。ホントに大丈夫?
    結論を言うと混乱はありませんでした。戸惑っていた僕も段々と高揚してきて何回か移動してみました。面白かった。慣れないことをしてかなり疲れましたが。

    このやり方で2時間以上は無理もあった。ツキアイキレナイ客もいて当然でしょうね。
    けれども、この戯曲にカットできる余地はなかったでしょう。
    さすが平田オリザの代表作ですね。ただの通行人と思えた人たちが過去に繋がりがあり、たまたま束の間の再会を果たすという`偶然`を描きながら、一箇所として展開に必然性を欠いた、あやふやなこじつけは見えない。初演当時の日本と東欧、バルカン半島から中東まで、歴史的状況を取り入れた作劇が古びた印象を与えないのも大したものです。

    多田淳之介の演出のテーマは、客を見られる存在にも成すということにあったと思います。この4年余り地方との関わりから生まれた観客が参加する演劇への興味の発展、地域・東京での活動のテーゼであるのでしょう。
    そのスタートダッシュにこの大胆さで臨んだ度胸と志を、僕は買いたい。

    多田はあえて奇を衒てらう演出を試みましたが、作品の大事な本質は表現出来ていた点も評価しておきたいと思います。
    例えば、最終シーンの泣いたら負けの「逆にらめっこ」です。
    役者も好演しましたが、暗転のあと、年代が進んで 9999 そして 0000 になる映像と美しいピアノの旋律が胸を衝きました。
    平凡な人間の、けれども切実を極める心の痛み。それでも、ひとは生き続ける・・。
    演劇理論や批評性から語られることの多い平田オリザ作品の詩情をよく描けていたと思います。

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