満足度★★★
『リレーコレオグラフ』鑑賞
4人の振付家が平山素子さんに振り付け、続けて踊られることによって、振付とは何かを考えさせるパフォーマンスでした。
誰がどのパートを振り付けたのか公表されていないので、もしかしたら間違っているかもしれませんが、井手茂太さんの振付したパートが他の3人の振付の前に踊られる構成でした。
冒頭の井手さんのパートはジャズの曲が流れる間ずっと椅子に座っているだけで、続く安藤朋子さんのパートは腰と左手首、左足首にドアに結び付けられたゴム紐を装着し、右手には同じくゴム紐でキャスター付きの丸椅子が繋がれた状態で引っ張られる力に反抗して壁から離れようとする作品でした。
再び冒頭で使われたジャズが流れ、今度はいかにも井手さんらしい腰の動きが特徴的なダイナミックでユーモアのあるダンスが踊られました。
次は(おそらく)和栗由紀夫さんの振付で、『牧神の午後への前奏曲』丸々1曲を踊る作品でした。人の形に見えない奇怪なフォルムを多用する中にニジンスキー版の有名なポーズが引用され、美と醜が表裏一体に感じられました。
再度、井手さんのパートがラストの部分以外は前回と同じように踊られ、最後は(おそらく)室伏鴻さんの振付で、最初から最後まで絶えず痙攣し続けるというハードコアな作品でした。前半は無音で、途中からデヴィッド・ボウイさんの『China Girl』が流れるのですが、曲調と動きのミスマッチ感が新鮮でした。
平山さんが自作では用いないようなムーブメントの振付を巧みに踊りこなしていて素晴らしかったです。舞踏的な痙攣も平山さんがするとテクニカルでスポーティーに見え、振付家の個性と共にダンサーの個性も浮かび上がっていたのが興味深かったです。
サブタイトルに『ファッションと身体』とあったのですが、衣服と身体の関係性を考えさせる要素はあまり感じられず残念でした。
満足度★★
『映画と身体』鑑賞
高嶋晋一さんとイェレナ・グラズマンさんによるレクチャーの体裁を取ったパフォーマンスと、東野祥子さんのソロダンスの2部構成で、難解で表現したいことが分かりませんでしたが、かといって退屈することはなく、集中力を切らさずに観ることが出来る作品でした。
前半は1つの壁側に向けられた客席と壁の間のわずかなスペースで、スクリーンに画像を表示しながら高嶋さんが主体や情報といった言語哲学的なトピックを日本語で語り、グラズマンさんはエイゼンシュタインのモンタージュ技法やカメラのフレーミング等の映画にまつわる話題を英語で語り、途中では高嶋さんが入り口のドアを何十回も出入りするシークエンスが続き、終盤はそれまで落ち着いて語っていたグラズマンさんが目隠しをして客席に乱入し絡みながら観客に質問をして回る構成でした。
ただでさえ英語はあまり分からないのに2人が同時に別々のことを話すので、興味深そうな内容だったのが理解出来ず、残念でした。
後半は客席を反対向きにレイアウトし直して、客席の背後のスクリーンに映画『ツィゴイネルワイゼン』や『どですかでん』の数分間の抜粋が流されるのを東野さんは直接見て、観客は正面の鏡に写った映像を見て、再度同じ部分が音声だけ流れるのに合わせて東野さんが踊るというシークエンスが4回繰り返される構成でした。
見る/見られるの関係性や記憶といったテーマを扱っているのだと感じましたが、それをそのまま見せているだけでアーティスティックな表現には達していないように思いました。
東野さんのエッジの効いたダンスは見応えがありました。
満足度★★
『写真と身体』鑑賞
『Welcome to “The Moment”』と題された作品は「写真と身体」というテーマの下に作られていますが、写真は直接的には登場せず、瞬間を留めたものという概念として扱っていました。
高く積み重ねられた平台が点在し、床には進行方向を示す曲がりくねった1本道のラインが描かれた空間の中央で、英語とオランダ語(?)による2人の対話が続き、もう1人のダンサーは床のラインに沿って決められた動きを何度もスタート地点に戻りながら繰り返し、冒頭と最後だけ実験的な響きの音楽が流れるという構成でした。
終盤に流れた美術館の中を走り回る狐の映像は冒頭の音楽と床のラインに関連を持たせてあって、それぞれの繋がりが見えて来るのが心地良かったです。
2人が話す内容を通訳の人がリアルタイムで日本語に翻訳しタイピングしたものを壁面に投影するアイディアは「瞬間を捕える」というテーマと合致していて興味深かったのですが、スピードと精度が低くて、会話の内容がほとんど分からなかったのが残念でした。
西村未奈さんのしなやかなダンスが美しかったです。
満足度★★
『スタジオラボ』鑑賞
若手ダンサー2人によるそれぞれ30分程度の作品の公演で、異なる方法でどちらも言葉との関わりを意識した内容でした。
両作品ともコンセプトを追求するのに力を注ぎ過ぎていて、観客の興味を引き、楽しませる要素が弱く感じられました。
山田歩『モノフィン』
箱馬で囲われた3つのスペースそれぞれに上半身裸のダンサーがいて、お互い関係なく動き、中盤になって振付家がダンサーに鑑賞し、照明を消したり点けたりする構成でした。
アフタートークでの説明によると、ダンサー達は架空の動物を書いた図鑑の記述をリテラルに演じていて、囲われたエリアの周りを観客が自由に移動したり(実際には誰も移動していませんでした)、エリア毎にビデオカメラが設置してあったのは動物園をイメージしていたとのことでしたが、表現がそのまま過ぎて、そこからの発展を見せて欲しかったです。
唐鎌将仁『ディゾルブ』
寝室を模した設えの中で3人のダンサーが自分以外の人の日常の生活を語りながら服を着て行き、後方に段ボール箱を積み重ねて行く構成で、3人のアイデンティティーが融解していくような作品でした。
いわゆるダンスらしい動きはほとんどなく、喋っている台詞と、それとは関係ない動きをする身体との緊張感のある関係をテーマにしているのは分かるのですが、身体表現に強度が感じられず、言葉が勝ち過ぎている印象を受けました。高く積み重ねた段ボール箱が自壊する最後のシークエンスは面白い仕掛けでしたが、唐突に感じられました。