INDEPENDENT:FUK 公演情報 INDEPENDENT:FUK」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.2
1-7件 / 7件中
  • 満足度★★★★★

    2日め。
    大好き福岡

  • 満足度★★★★★

    1日め。
    福岡サイコー

  • 満足度★★

    昨年に比べて質の低下が著しい
    最強の一人芝居フェスティバル「INDEPENDENT」は、昨年と運営形態が変わって、今年は九州地域発の「INDEPENDENT:FUK」として地域主体となった結果、上演作品の質が低下してしまった。

    詳細は、「福岡演劇の今」 http://f-e-now.ciao.jp/ に書いています。

  • 続けないと意味が無いのかな。
    上演を重ねてきた2作品は、さすがの出来で、別の(?)表現方法を用いた「一人芝居」を観せてもらえて楽しんだ。

    九州勢の選出基準がよくわからないけど、前評判で聞いていたほどでないのは、いつもの作風と違うこと(一人芝居だから?)に挑戦した結果なのだろうか?とか、これがやりたいんなら、もっと身体も技術も磨かなければ、という感想をもってしまったのが残念。
    だからって
    「じゃ来年はもっと面白い話をやる!」
    なんてんじゃなく、今回のものを5年間、磨き上げるつもりでいってほしーなーと、思いました。

  • 遅くなりましたが…
    一人芝居、堪能してきました(^□^)
    しっとりした作品からすごすぎる作品まで、色々あって…楽しみました。
    次回も楽しみにしています!!

  • 満足度★★

    あなたはそこにいますか
     今回の一人芝居フェスティバルの内容が、「九州公募枠4組」+「東京・大阪招聘2組」と聞いて、首を傾げた。
     ある程度の回数を重ねて、一人芝居のノウハウが九州の演劇人たちに蓄積されているという確認が出来てからならともかく、今回は「第1回」である。ただでさえ、九州は演劇人の養成システムが確立していないのに、この配分はおかしかろう、招聘作品5組、九州公募作品が1組、ここから始めるのが妥当なのではないか、そう思ったのだ。
     不安は的中して、九州4組の出来はかなり酷いものだった。いずれも「舞台で台詞を喋っているだけ、動いているだけ」で、演技の体を成していない。これでは観客はおいてきぼりだ。たとえ一枠に絞ったとしても、東京の劇団「柿喰う客」の足元にも及ばない。
     なぜこんな構成にしたのか、単に各地から劇団を呼ぶには予算がなかったからなのか、それとも本気でフェスティバルが成立すると考えていたのか、製作の思惑が後者だとしたら、脳天気にもほどがあろう。
     観客席を埋めていたのも、会話を聞く限りでは殆どが劇団関係者や身内客であり、一般客の姿はたいしていないようだった。こういう集客は「マッチポンプ」と言うのであって、もっと厳しい言い方をすれば、「一般客の排除」である。何をやってるんだとしか言いようがない。
     地元劇団を偏愛するあまり、地元劇団をヨイショするような企画ばかり立てていたのでは、地方演劇の振興には何一つ寄与はしないだろう。そんな余計なことを考えている暇があったら、中央の劇団をもっと呼んできて公演を増やした方が、よっぽど「井の中の蛙」たちに「地元でやったっていつまで経っても蛙のまま」という認識を持たせることになる。それをしないのは、福岡の演劇人たちは「蛙のままでいい」という認識なのだろう。決して貶さずただ誉めよう、という幼稚園のお遊戯会である。
     実のところ、こちらの目当ては「柿喰う客」だけだったから、他のとこの出来云々はどうでもよかったのだけれど、私らフツーの客の「時間」は、彼らの非力のためにしっかり殺されたのである。

    ネタバレBOX

    Aブロック:

    ■「従営獣」
     [出演:井口誠司 ]×[脚本・演出:仲島広隆](福岡)
     満足度:★

     ト書きをいきなり語り始める演者。何かの店のバイトらしい、ということが分かりはするが、別に不必要。演じている中でそれは見えてくるもので、既に冒頭から観客の想像を減殺させてしまっている(これは次の『みぞれ』も同様)。
     同じバイトの秋田(♀)に、自分の恋(=ストーカー)バナを嬉々として語る演者だが、これが全く面白くない。現実でも「自分語り」は聞き手の興味関心を惹かないのが相場なのに、なぜこんなつまらない題材を選んだのか、理解に苦しむ。
     演者に技術があれば、つまらない話でも聞かせられるが、これもつかこうへい式の怒涛の喋りで演技になっておらず、しかも滑舌が悪いから、何を言っているのか分からないこともしばしば。
     さらになぜか演者は飛んだり跳ねたり、内容と動きがちぐはぐで、これはいったい何をしたいのか、皆目見当が付かなくなる。店先でそんなことをしていていいものか、と疑問に思っていたら、「こんなところで飛んだり跳ねたりしてるのって変ですよね」と自分突っ込み。十分以上もそれをやって、今さら言うかよ、と白けるばかりで、ギャグになり損ねている。演者も下手だが、脚本段階から設定と構成を間違えているのだ。
     それから話は秋田と店長の話題に移って、ようやく展開らしい展開を見せ始めるが、時既に遅し、タイミングを外してしまっている。ふざけすぎた前半の演技が影を落としたまま、演者と観客の間のシンパシーは形成されず、バイトを解雇される彼の悲哀も伝わっては来ない。
     前半、陽気なバイトくんが、後半、理不尽に解雇させられていく無情とを、対照的に描きたかったのだろうが、ならば前半の人物造形を、もっと観客の感情移入できるものにして、演者も「バカだけれど憎めない」キャラとして演じなければ、効果は生まれない。観客がバカに感情移入できるのは、「こういうバカは自分もやっちゃうよなあ」と思えるからだ。ストーカーレベルに設定してしまっては、「ここまで俺はバカじゃないよ」と、観客はそっぽを向く。バカの造形は、案外観客との「釣り合い」を取るのが難しいのだ。
     終始、照明が暗く、演者の表情が見えにくかった。特に表情を読ませない演出意図がある話だとも思えないし、細部に拘る姿勢が欠如しているのだろう。


    ■「みぞれ」
     [出演・脚本・演出:山田美智子](鹿児島)
     満足度:★

     喫茶店を営む要子と、恋人の荒戸、要子の姉や、近所の小学生などを、演者は一人で演じ分ける。
     ならばどうして実際にキャストを四人なり五人用意して、普通の芝居として仕立てなかったのか、一人芝居にしなければならない意図が、台本からは一切伝わってこない。逆に一人芝居にしてしまったことで、ある役からある役に移行する時に、どうしてもタイムラグが生じて、その間、“観客が素に戻らされてしまう”。
     一人で演じるための脚本を書けなかったのか、あるいは「演じ分けを見せたいから」、一人芝居の形式を選んだのか、どちらにしろ、「一人芝居とは何か」「一人芝居だからこそ表現できるものは何か」、それを一切追求していない、「演劇以前の舞台」と断定せざるを得ない。
     主人公の「かき氷はみぞれしか出さない」という拘りも、これもまた嬉々とした「自分語り」になっていて、感興を殺ぐことこの上ない。「なぜかこの店ではみぞれしか出さない」という「謎」を提示して、話を引っ張る手法(映画で言う「マクガフィン」というやつだ)を撮ればいいものを、それを作者は取得していない。戯曲は「解説」ではないのだ。
     解説ばかりの脚本だから、ドラマが生まれない。雀を殺す異常行動に出ている荒戸や、彼の狂気を救いたいと願う要子も、その心理を台詞で全部説明してしまうので、観客の想像力を誘うものにはならない。シリアスな内容だけに、これはできるだけ過剰な演技は抑えて、ナチュラルな演技を、それこそ現代口語演劇の手法が求められるが、演者は無意味に声に抑揚を付けて、要子を無駄に色っぽく演じている。
     こんな喋りの女が現実に喫茶店を経営していたら、客は二度と足を運ばなくなるだろう。アタマが逝っちゃってる、としか見えないのである。


    ■「いまさらキスシーン」
     [出演:玉置玲央(柿喰う客)] × [脚本・演出:中屋敷法仁(柿喰う客)](東京)
     満足度:★★★★

     他のがあまりに酷いので、思わず反作用的に五つ星を付けたくなってしまうが、冷静になって考えてみると、これは一人芝居としてはかなり「禁じ手」を使っているのである。正攻法が常によいとも言えないし、面白ければどんな手を使おうが構わないのだが、中屋敷法仁の潜在能力は、まだまだ発揮されていないのではないか、という思いもあるので、四つ星に。
     玉置玲央(♂)が、「せ・す・じ、をピーンと伸ばして」と言って、女子高生姿で仁王立ちした瞬間から、劇空間が屹立したのには舌を巻いた。
     これも「自分語り」であり、説明台詞のオンパレードであり、怒涛のつか喋りである。つまり、「一人芝居でやっちゃいけないこと」をやりまくっているのだ。なのに面白い。中屋敷法仁は、恐ろしいことに、今回、“やったら失敗することをあえてやって成功させるためには、何をどうすればよいか”という、とんでもないことに挑戦したのだ。読んでも全然面白くない教科書とか六法全書とか般若心経を面白く読み聞かせようとしているようなものだ。
     この時点で、既に他の劇団とは、目指しているものレベルが全く違う。
     玉置玲央は女装をしているが、実はこれは女装ではない。彼は一切、女言葉で喋らないし(わざと「ぶる」時を除いて)、女演技をしない。それをすれば「オカマ」になってしまうことを、中屋敷氏は熟知している。それは観客の感情移入を阻害する「虚像」でしかない。だから、「彼女」は“あの姿こそが素の姿”としてナチュラルだから、自然に観客の意識にすりこまれる。だからあれは女装ではない。“男にしか見えない女”が自分の制服を着ているだけなのだ。だから全く気持ち悪くない。
     彼女の恋バナも、その異常な姿とは相反して、実に普通である。「先輩と一緒の大学に通いたい」。これだけで、観客が引くようなストーカー的な行為を取らない。その直前で「寸止め」してある。過剰な表現とは対照的に、内実はとことんリアルなのだ。だから、「あるある」と観客は感情移入ができる。グロテスクなその容姿も、いつの間にか受け入れてしまっている。
     つか式の過剰な喋りも、リフレインを多用したリズミカルな台詞に乗せることによって、青春の怒涛を表現することに成功している。彼女は、一見、自分の心理を説明しているようであるが、これも本当は「自分語り」ではないのだ。自分の感情に溺れてはいない。彼女は自分に対しての冷静な客観者である。恋と、勉強と、部活と、その三者のバランスを取ろうとし、それに失敗していく過程を、「行動」をメインに描写していく。これはハードボイルドの手法だ。「自分語り」を他人に聞かせるためには、ハードボイルドに徹する必要があるのだ。
     心理描写が客観描写と合致しているから彼女が走る国道が舞台上に“見える”し、彼女が乱暴される暗い原っぱが広がって“見える”。
     極めつけは、彼女と先輩の最後の出逢いだ。罵倒した部活の仲間たちから乱暴され、血まみれになった彼女のおでこに、先輩はキスをする。彼女の血まみれの姿に先輩は驚きもせず、キスしたその唇は彼女の血で濡れる。その様子を、彼女は、自分ではその意味を理解しないまま、淡々と語る。だから観客だけが気付くのだ。彼女を乱暴させたのは先輩なのだと。
     これが“ドラマのある”戯曲の書き方なのだ。台詞に説明はない。しかし描写はある。だからその台詞の意味を、観客が想像することができる。こういう台詞を書けるか書けないかが、プロとアマの差なのである。
     

    番外上演
    ■「キネマおじさん」
     [出演:江口隼人(劇団空中楼閣)]×[脚本:永松亭(劇団空中楼閣)]×[演出:FALCON(劇団空中楼閣)](福岡)
     満足度:★★★

     予選落ちしたが、観客の評判がよかったので、急遽幕間にロビーで上演することになったもの。
     『タイタニック』『借りぐらしのアリエッティ』『テルマエ・ロマエ』をそれぞれふとっちょのおじさんが、BGMにCDを流し、お客さんに話しかけつつ、パロディーにしていく。
     このおじさん、普段はストリップ劇場の幕間のお喋り漫談なんぞをやっているそうで、何のこたあない、喋りのプロなのである。
     『タイタニック』は、ケイト・ウィンスレットが、レオナルド・ディカプリオを斧で殺して自分だけが「ヘルプ・ミー!」と助かるオチ。
     『アリエッティ』は、小さくなった女子高生はアリエッティは、南くんのポケットに入っていつも一緒だったけど、車に轢かれて死にました、という『南くんの恋人』に話がすり替わるオチ。
     『テルマエ・ロマエ』は、ルシウスがタイムスリップしたのが現代のソープランドで、花時計とかいろんな技を上戸彩ちゃんに教えて貰って、古代に帰り、トルコ風呂の創設を始めたという……おお、パロディなのにちゃんとSFになっている!(笑)
     下品な人間の、下品な人間による、下品な人間のための漫談だが、誰のため、何のためにやっているのか分からない芝居に比べれば、はるかに満足度は高い。公募枠に受かった他の劇団の方がよっぽど幼稚だ。
     この企画が、九州の若手の小劇場をヨイショするだけのもので、一般の観客のニーズに答えるものではないことが、この選考の仕方でよく分かる。


    Bブロック:

    ■ 「Comfortable hole bye.」
     [出演:野中双葉(劇団ノコリジルモ)]×[脚本・演出:熊谷茉衣子(劇団ノコリジルモ)](福岡)
     満足度:★

     さまざまな自殺を試みる少女。しかしなかなか死ねない。というよりも、本気で死ぬ気が少女にはない。首を吊っても苦しくて、手首を切っても痛くて、死に至ることが出来ない、と言い訳する少女。
     死ぬつもりはないのになぜ死を望むのか。“純粋に死にたいのだ”という意味のことを少女は言う。“死ぬのに理由がある死”は、自分の求める自殺とは違うのだ、と。
     こうした最初の設定は面白いのだが、まず演者の演技が典型的な「演技している演技」で、嘘っぽさしか感じられないのが観ていてつらくて仕方がなかった。特に中盤以降の「死についての一人語り」になるともういけない。完全に、舞台と客席との間に障壁を築いてしまっている。
     台詞は、覚えてそれに抑揚を付けるだけでは「演技」の域には達しない。それは「よく長い台詞を覚えましたね」とセンセイや親などの身内から誉められるだけの「お遊戯」だ。しかしそもそもの脚本自体が演劇の体を成していないのだから、演技云々を忖度したところで意味はない。
     物語は結局「やっぱり生きろ」というところに落ち着くのではないかと思っていたら、やはりそうだった。自殺防止キャンペーンの一助になればという思いで書かれた作品なのかも知れないが、本気で死のうと思う人間がこの舞台を観たとしても、その決意を翻させることは不可能だろう。


    ■「スパイラルベイビーのおと」 
     [出演:守田慎之介(演劇関係いすと校舎)]×[脚本・演出:平林拓也(ユニット成長剤)](行橋)
     満足度:★★

     九州勢の中では、これが一番マシだった。
     しかしそれも「一応、一人芝居として成立させるためのアイデアがある」ということであって、面白かったというほどではない。
     舞台は白いラインで三分割されており、シャツをはみ出させた男が、ラインを越えて場所を移動する度に、別人を演じていく。一人は、死にかけた妻のために、他人を笑わせようとする男(なぜか他人を笑わせると妻の寿命が延びるのだそうだ)。一人は、就職難で、面接を受けまくっているが、頓珍漢なことを言っては落ちている男。もう一人は、妻に浮気を疑われて離婚したものの、子供の親権で係争中の男。
     この全く無関係に見える三人は、どんな関係があるのか。とかくといかにも大層な謎のようだが、この手の話は概ね次の三パターンのいずれかだ。
     (1) 三人が出遭って、新たなドラマが始まる。
     (2) 三人がぶつかって、人格が入れ替わる。
     (3) 三人と見えて、実は一人の人間の多重人格である。
     一人芝居だから、(3)の可能性が高いなあと思って観ていたら、やっぱりそうだった。発想が悪いとまでは言わない。しかしこのネタは、もう手垢が付きすぎているのである。「あれっ、そこにいた人がいない」と一人が言いだして、多重人格ネタであると確信してから後が長くて退屈なこと。
     こういうワン・アイデア・ストーリーは、短編で、最後の最後に意外な結末で「落とす」のが心臓のようなものなので、途中で大半の観客にネタが割れてしまうのは、致命的と言われても仕方がないのである。


    ■「暗くなるまで待てない!」
     [出演:横田江美(A級MissingLink)]×[脚本演出:土橋淳志(A級MissingLink)](大阪)
     満足度:★★★

     主人公は盲目の少女である。かつては母親が教祖であった新興宗教団体で、盲目の巫女として神託を告げる役割を果たしていた。しかし母親が死んで、今は細々と占い師をして暮らしている。
     ある時、かつて教団にいた男が現れて、隠し財産を寄越せと強要してくる。拒む少女。さらには、近くで虐待に堪えかねて父親を殺してきた少年も、少女のところに転がり込んでくる。久しぶりに人に触れ合って、優しさを取り戻していく少女。だが、破局はもうすぐそこまで来ていた。
     ある晩、いきなり留守宅に上がり込んできた男が、強盗と化し、少女を殺そうとした。恐怖に駆られ逃げまどう少女。電灯を壊し、暗闇の中で対峙する二人。しかし少女が有利だったのは最初だけで、じきに男に掴まってしまう。殺される寸前、男を引き離し、彼女を助けた「誰か」がいた。それは自首するために出ていったと思われていた少年だった。少年は男を倒す。そして再び、少女の下から去っていく。
     翌日、少女は驚くべき事実を警察から聞かされる。少年は、昨晩、“少女の部屋に帰ってくる以前に”川に落ちて死んでいた……。
     タイトルで、オードリー・.ヘプバーンの最後の主演映画である『暗くなるまで待って』を連想した観客は多いだろう。
     盲目の女性の屋敷に、強盗が忍び込んで、しかし明るいうちは、強盗に有利、でも暗くなれば、敵と自分と、条件は同じ、逆転勝利の可能性はある……というシーンは確かにラストに存在するが、そこに至るまでの話が長い。「暗くなるまで待てない」のは観客の方だったりする。
     もっともそのあとに、強盗から女性を守ったのは、“眼には見えない”ある少年の幽霊だということが明かされる。主人公の盲目が、しかも一人芝居であるため、少年の姿は“観客にも見えない”ことを巧く利用して、よくあるオチではあっても、最後まで少年の正体に気付かせないトリックは秀逸。実際、私も引っかかった。だって「見えないのが当たり前」と思っていたのだもの。これは「演劇だからこそ仕掛けられる叙述トリック」である。
     確かに、そこに至るまでの過程は長い。しかしその長さは、全てこのラストの意外性を生かすために必要なドラマだった。演者の演技が生硬で、平板な印象を与えてしまうのはマイナス点だが、この一人芝居をミステリーのトリックとして使用した点において、前の「スパイラルベイビーのおと」よりも優れている。同じく一人芝居の裏技を仕掛けた井上ひさしの『化粧』に匹敵するものとして、高く評価されるべきだと考える。


     一人芝居の演者が、客席に向かって語りかける。
     語りかけている相手は、一見すると我々観客であるかのように見える。
     漫談ならそうだ。しかし「演劇」においては、演者の対象は必ずしも観客に限定されるものではない。ドラマの中の相手だろう、という解釈も、「設定」としてはそうなのだが、正確を期するならそう断定は゛きない。
     「演劇空間」というのは、端的に言えば、そこにその時だけ存在する「異空間」、一種の「別世界」を創り出すことだ。それが最もプリミティブな形で構築されるのが「一人芝居」である。
     演者が対峙しているのは、「世界」あるいは「宇宙」そのものだ。茫漠として具体的な形を備えてはいない「概念」そのもの、しかしそれは確実にそこに存在している。
     他の演劇、即ち対話劇の場合、「相手」は具体的な形を伴うがゆえに、世界の構築もまた二者間の距離と、演技の内実によって、舞台上に形成されるのが基本だ。しかし一人芝居の場合は、演者と観客が“見ている”対象は「同じもの」だ。即ち、「世界」は実は舞台上に留まらない。ともすればそれは一気に劇場から外に飛び出し、宇宙にまで拡大する。
     一人芝居と通常の舞台との明確な違いはその点にある。
     言い換えるなら、普通の舞台の場合、ドラマは舞台上にあり、それを観客は見たままに解釈するが、一人芝居の場合はそうではない。我々が見ているものは、いや、「見ようとしているもの」は、演者の演技、言葉を通した「向こう側」にある「世界」なのであって、我々もまた想像力を駆使しないことには、その世界は決して見えては来ないのだ。
     そんな「得体の知れないもの」がなぜ演者ばかりでなく、我々にも共有することが可能なのかというと、我々の脳が行う「認識」「理解」という作業自体が、基本的には「得体の知れないものに言葉を与える作業」だからなのだ。
     従って、「世界」を構築できない一人芝居は、演劇として成立し得ない。宇宙が見えていない演者に、観客にも宇宙を感じてもらうことは不可能である。今回の一人芝居フェスティバル、彼ら彼女らに、宇宙は見えていたのだろうか。
  • 満足度★★

    合計6作品(7作品)なので評価は平均値になる
    一人芝居フェスティバル、合計6作品+幕間という構成なので、簡単にそれぞれの作品ごとに感想を書きます。


    Aブロック

    『従営獣』

    一人の男が、ショップでもう一人の店員(女)と話をしている様子を描いている。
    ストーリー的にもあまり面白いところはなかったが、話している間中男は動き続けている。その動きに意味がなかったのが最大の欠点。
    演者はいろいろな動きをしている。それには本来意味はないのだろうが、本当に意味がないのだ。
    動き自体に意味はなくとも、その動きによって観客に与える影響を考えて動かなければいけない。しかし、それが全く考えられておらず、ただ「動いているだけ」。これは芝居ではない。
    それから、作品は怒涛のようなセリフの波だったが、演者の滑舌が悪く、何度も噛んでいた。これも作品の質を大きく落としていた。
    音響のタイミングや大きさも気になったが、オペレーターは全作品同じ人で、特にこの作品のスタッフというわけではなかったのだろうか? もし専用のスタッフだったならこれも頂けなかった。


    『みぞれ』

    4人の登場事物を全て一人で演じる形式。
    ト書きも演者が読む形で、一人芝居の意味があるのかとさえ感じる。
    演じ分けも無理に声を作っているのせいか、役柄と合っていない。


    『いまさらキスシーン』

    全作品の中で一番面白かった。
    これも怒涛のセリフの波だったが、きちんと緩急が付き聞き取りやすい。
    セリフや動きの繰り返しやストップなどちゃんと考えられている。
    この作品は音響ミスもなかった。
    作者・演者の力量の差だろうが、一人芝居がどういうものなのか考えられている作品かどうかの違いがはっきり見える。
    他がつまらな過ぎてこの作品が素晴らしいものに思えてきたが、実際はこれくらいがスタンダードであって欲しい。



    Bブロック

    『Comfortable hole bye』

    「死」についての考察を、どこかの空間にいる人間(のようなもの)が、誰かに向かい喋り続ける。
    まるで高校演劇でも見ているのかと思った。
    演者の力量という点でも勿論だが、作品内容についても、思春期に入ったばかりの子供の思い上がった愚痴としか見えない。
    大人が作り、発表するには恥ずかしすぎる作品。


    『スパイラルベイビーのおと』

    アイデアは悪くない。
    舞台を3分割し、それぞれ別の役を演じるが…。という。
    よくあるネタと言ってしまえばそれまでだが、作品としてのとっかかりは悪くなかった。
    しかし、ここも演者の力量不足、作品を膨らませる力不足だった。
    関係者側からはどうにもならないこととは言え、この作品の上演中、演者の知り合いと思しき観客たちが、面白いわけでもない演者のちょっとした仕草にやたらと笑っていた。
    どんな作品でもそうだが、これでは他の観客たちは冷めるばかりで、結果として関係者側も不利益だと思うのだが、呼んで来てもらわなければチケットが捌けないのだろうか。


    『暗くなるまで待てない』

    他の人間がいるかのようにふるまう形式。
    ストーリーがあることで退屈はしなかった。
    すごく面白いというわけではないが、これなら及第点。
    演者も独りよがりではなく、一人芝居をやろうという意識が見えた。


    幕間

    『キネマおじさん』

    「タイタニック」「借りぐらしのアリエッティ」「テルマエロマエ」の3作品をパロディ化。
    もっとアイデアが欲しかったところだが、喋りは慣れていて不快感はなかった。


    招聘作品と九州勢との差があまりにも酷かった。
    一人芝居とはなんなのか、どんな形で表現するべきかといった基本的なことを考えずに発表している作品ばかりで頭が痛かった。
    予選もあったとのことなので、これが勝ち残りなら予選はどうだったんだと恐ろしくなる。
    それともあまり作品が集まらなくてこういう結果なのだろうか。

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