INDEPENDENT:FUK 公演情報 NPO法人FPAP「INDEPENDENT:FUK」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    あなたはそこにいますか
     今回の一人芝居フェスティバルの内容が、「九州公募枠4組」+「東京・大阪招聘2組」と聞いて、首を傾げた。
     ある程度の回数を重ねて、一人芝居のノウハウが九州の演劇人たちに蓄積されているという確認が出来てからならともかく、今回は「第1回」である。ただでさえ、九州は演劇人の養成システムが確立していないのに、この配分はおかしかろう、招聘作品5組、九州公募作品が1組、ここから始めるのが妥当なのではないか、そう思ったのだ。
     不安は的中して、九州4組の出来はかなり酷いものだった。いずれも「舞台で台詞を喋っているだけ、動いているだけ」で、演技の体を成していない。これでは観客はおいてきぼりだ。たとえ一枠に絞ったとしても、東京の劇団「柿喰う客」の足元にも及ばない。
     なぜこんな構成にしたのか、単に各地から劇団を呼ぶには予算がなかったからなのか、それとも本気でフェスティバルが成立すると考えていたのか、製作の思惑が後者だとしたら、脳天気にもほどがあろう。
     観客席を埋めていたのも、会話を聞く限りでは殆どが劇団関係者や身内客であり、一般客の姿はたいしていないようだった。こういう集客は「マッチポンプ」と言うのであって、もっと厳しい言い方をすれば、「一般客の排除」である。何をやってるんだとしか言いようがない。
     地元劇団を偏愛するあまり、地元劇団をヨイショするような企画ばかり立てていたのでは、地方演劇の振興には何一つ寄与はしないだろう。そんな余計なことを考えている暇があったら、中央の劇団をもっと呼んできて公演を増やした方が、よっぽど「井の中の蛙」たちに「地元でやったっていつまで経っても蛙のまま」という認識を持たせることになる。それをしないのは、福岡の演劇人たちは「蛙のままでいい」という認識なのだろう。決して貶さずただ誉めよう、という幼稚園のお遊戯会である。
     実のところ、こちらの目当ては「柿喰う客」だけだったから、他のとこの出来云々はどうでもよかったのだけれど、私らフツーの客の「時間」は、彼らの非力のためにしっかり殺されたのである。

    ネタバレBOX

    Aブロック:

    ■「従営獣」
     [出演:井口誠司 ]×[脚本・演出:仲島広隆](福岡)
     満足度:★

     ト書きをいきなり語り始める演者。何かの店のバイトらしい、ということが分かりはするが、別に不必要。演じている中でそれは見えてくるもので、既に冒頭から観客の想像を減殺させてしまっている(これは次の『みぞれ』も同様)。
     同じバイトの秋田(♀)に、自分の恋(=ストーカー)バナを嬉々として語る演者だが、これが全く面白くない。現実でも「自分語り」は聞き手の興味関心を惹かないのが相場なのに、なぜこんなつまらない題材を選んだのか、理解に苦しむ。
     演者に技術があれば、つまらない話でも聞かせられるが、これもつかこうへい式の怒涛の喋りで演技になっておらず、しかも滑舌が悪いから、何を言っているのか分からないこともしばしば。
     さらになぜか演者は飛んだり跳ねたり、内容と動きがちぐはぐで、これはいったい何をしたいのか、皆目見当が付かなくなる。店先でそんなことをしていていいものか、と疑問に思っていたら、「こんなところで飛んだり跳ねたりしてるのって変ですよね」と自分突っ込み。十分以上もそれをやって、今さら言うかよ、と白けるばかりで、ギャグになり損ねている。演者も下手だが、脚本段階から設定と構成を間違えているのだ。
     それから話は秋田と店長の話題に移って、ようやく展開らしい展開を見せ始めるが、時既に遅し、タイミングを外してしまっている。ふざけすぎた前半の演技が影を落としたまま、演者と観客の間のシンパシーは形成されず、バイトを解雇される彼の悲哀も伝わっては来ない。
     前半、陽気なバイトくんが、後半、理不尽に解雇させられていく無情とを、対照的に描きたかったのだろうが、ならば前半の人物造形を、もっと観客の感情移入できるものにして、演者も「バカだけれど憎めない」キャラとして演じなければ、効果は生まれない。観客がバカに感情移入できるのは、「こういうバカは自分もやっちゃうよなあ」と思えるからだ。ストーカーレベルに設定してしまっては、「ここまで俺はバカじゃないよ」と、観客はそっぽを向く。バカの造形は、案外観客との「釣り合い」を取るのが難しいのだ。
     終始、照明が暗く、演者の表情が見えにくかった。特に表情を読ませない演出意図がある話だとも思えないし、細部に拘る姿勢が欠如しているのだろう。


    ■「みぞれ」
     [出演・脚本・演出:山田美智子](鹿児島)
     満足度:★

     喫茶店を営む要子と、恋人の荒戸、要子の姉や、近所の小学生などを、演者は一人で演じ分ける。
     ならばどうして実際にキャストを四人なり五人用意して、普通の芝居として仕立てなかったのか、一人芝居にしなければならない意図が、台本からは一切伝わってこない。逆に一人芝居にしてしまったことで、ある役からある役に移行する時に、どうしてもタイムラグが生じて、その間、“観客が素に戻らされてしまう”。
     一人で演じるための脚本を書けなかったのか、あるいは「演じ分けを見せたいから」、一人芝居の形式を選んだのか、どちらにしろ、「一人芝居とは何か」「一人芝居だからこそ表現できるものは何か」、それを一切追求していない、「演劇以前の舞台」と断定せざるを得ない。
     主人公の「かき氷はみぞれしか出さない」という拘りも、これもまた嬉々とした「自分語り」になっていて、感興を殺ぐことこの上ない。「なぜかこの店ではみぞれしか出さない」という「謎」を提示して、話を引っ張る手法(映画で言う「マクガフィン」というやつだ)を撮ればいいものを、それを作者は取得していない。戯曲は「解説」ではないのだ。
     解説ばかりの脚本だから、ドラマが生まれない。雀を殺す異常行動に出ている荒戸や、彼の狂気を救いたいと願う要子も、その心理を台詞で全部説明してしまうので、観客の想像力を誘うものにはならない。シリアスな内容だけに、これはできるだけ過剰な演技は抑えて、ナチュラルな演技を、それこそ現代口語演劇の手法が求められるが、演者は無意味に声に抑揚を付けて、要子を無駄に色っぽく演じている。
     こんな喋りの女が現実に喫茶店を経営していたら、客は二度と足を運ばなくなるだろう。アタマが逝っちゃってる、としか見えないのである。


    ■「いまさらキスシーン」
     [出演:玉置玲央(柿喰う客)] × [脚本・演出:中屋敷法仁(柿喰う客)](東京)
     満足度:★★★★

     他のがあまりに酷いので、思わず反作用的に五つ星を付けたくなってしまうが、冷静になって考えてみると、これは一人芝居としてはかなり「禁じ手」を使っているのである。正攻法が常によいとも言えないし、面白ければどんな手を使おうが構わないのだが、中屋敷法仁の潜在能力は、まだまだ発揮されていないのではないか、という思いもあるので、四つ星に。
     玉置玲央(♂)が、「せ・す・じ、をピーンと伸ばして」と言って、女子高生姿で仁王立ちした瞬間から、劇空間が屹立したのには舌を巻いた。
     これも「自分語り」であり、説明台詞のオンパレードであり、怒涛のつか喋りである。つまり、「一人芝居でやっちゃいけないこと」をやりまくっているのだ。なのに面白い。中屋敷法仁は、恐ろしいことに、今回、“やったら失敗することをあえてやって成功させるためには、何をどうすればよいか”という、とんでもないことに挑戦したのだ。読んでも全然面白くない教科書とか六法全書とか般若心経を面白く読み聞かせようとしているようなものだ。
     この時点で、既に他の劇団とは、目指しているものレベルが全く違う。
     玉置玲央は女装をしているが、実はこれは女装ではない。彼は一切、女言葉で喋らないし(わざと「ぶる」時を除いて)、女演技をしない。それをすれば「オカマ」になってしまうことを、中屋敷氏は熟知している。それは観客の感情移入を阻害する「虚像」でしかない。だから、「彼女」は“あの姿こそが素の姿”としてナチュラルだから、自然に観客の意識にすりこまれる。だからあれは女装ではない。“男にしか見えない女”が自分の制服を着ているだけなのだ。だから全く気持ち悪くない。
     彼女の恋バナも、その異常な姿とは相反して、実に普通である。「先輩と一緒の大学に通いたい」。これだけで、観客が引くようなストーカー的な行為を取らない。その直前で「寸止め」してある。過剰な表現とは対照的に、内実はとことんリアルなのだ。だから、「あるある」と観客は感情移入ができる。グロテスクなその容姿も、いつの間にか受け入れてしまっている。
     つか式の過剰な喋りも、リフレインを多用したリズミカルな台詞に乗せることによって、青春の怒涛を表現することに成功している。彼女は、一見、自分の心理を説明しているようであるが、これも本当は「自分語り」ではないのだ。自分の感情に溺れてはいない。彼女は自分に対しての冷静な客観者である。恋と、勉強と、部活と、その三者のバランスを取ろうとし、それに失敗していく過程を、「行動」をメインに描写していく。これはハードボイルドの手法だ。「自分語り」を他人に聞かせるためには、ハードボイルドに徹する必要があるのだ。
     心理描写が客観描写と合致しているから彼女が走る国道が舞台上に“見える”し、彼女が乱暴される暗い原っぱが広がって“見える”。
     極めつけは、彼女と先輩の最後の出逢いだ。罵倒した部活の仲間たちから乱暴され、血まみれになった彼女のおでこに、先輩はキスをする。彼女の血まみれの姿に先輩は驚きもせず、キスしたその唇は彼女の血で濡れる。その様子を、彼女は、自分ではその意味を理解しないまま、淡々と語る。だから観客だけが気付くのだ。彼女を乱暴させたのは先輩なのだと。
     これが“ドラマのある”戯曲の書き方なのだ。台詞に説明はない。しかし描写はある。だからその台詞の意味を、観客が想像することができる。こういう台詞を書けるか書けないかが、プロとアマの差なのである。
     

    番外上演
    ■「キネマおじさん」
     [出演:江口隼人(劇団空中楼閣)]×[脚本:永松亭(劇団空中楼閣)]×[演出:FALCON(劇団空中楼閣)](福岡)
     満足度:★★★

     予選落ちしたが、観客の評判がよかったので、急遽幕間にロビーで上演することになったもの。
     『タイタニック』『借りぐらしのアリエッティ』『テルマエ・ロマエ』をそれぞれふとっちょのおじさんが、BGMにCDを流し、お客さんに話しかけつつ、パロディーにしていく。
     このおじさん、普段はストリップ劇場の幕間のお喋り漫談なんぞをやっているそうで、何のこたあない、喋りのプロなのである。
     『タイタニック』は、ケイト・ウィンスレットが、レオナルド・ディカプリオを斧で殺して自分だけが「ヘルプ・ミー!」と助かるオチ。
     『アリエッティ』は、小さくなった女子高生はアリエッティは、南くんのポケットに入っていつも一緒だったけど、車に轢かれて死にました、という『南くんの恋人』に話がすり替わるオチ。
     『テルマエ・ロマエ』は、ルシウスがタイムスリップしたのが現代のソープランドで、花時計とかいろんな技を上戸彩ちゃんに教えて貰って、古代に帰り、トルコ風呂の創設を始めたという……おお、パロディなのにちゃんとSFになっている!(笑)
     下品な人間の、下品な人間による、下品な人間のための漫談だが、誰のため、何のためにやっているのか分からない芝居に比べれば、はるかに満足度は高い。公募枠に受かった他の劇団の方がよっぽど幼稚だ。
     この企画が、九州の若手の小劇場をヨイショするだけのもので、一般の観客のニーズに答えるものではないことが、この選考の仕方でよく分かる。


    Bブロック:

    ■ 「Comfortable hole bye.」
     [出演:野中双葉(劇団ノコリジルモ)]×[脚本・演出:熊谷茉衣子(劇団ノコリジルモ)](福岡)
     満足度:★

     さまざまな自殺を試みる少女。しかしなかなか死ねない。というよりも、本気で死ぬ気が少女にはない。首を吊っても苦しくて、手首を切っても痛くて、死に至ることが出来ない、と言い訳する少女。
     死ぬつもりはないのになぜ死を望むのか。“純粋に死にたいのだ”という意味のことを少女は言う。“死ぬのに理由がある死”は、自分の求める自殺とは違うのだ、と。
     こうした最初の設定は面白いのだが、まず演者の演技が典型的な「演技している演技」で、嘘っぽさしか感じられないのが観ていてつらくて仕方がなかった。特に中盤以降の「死についての一人語り」になるともういけない。完全に、舞台と客席との間に障壁を築いてしまっている。
     台詞は、覚えてそれに抑揚を付けるだけでは「演技」の域には達しない。それは「よく長い台詞を覚えましたね」とセンセイや親などの身内から誉められるだけの「お遊戯」だ。しかしそもそもの脚本自体が演劇の体を成していないのだから、演技云々を忖度したところで意味はない。
     物語は結局「やっぱり生きろ」というところに落ち着くのではないかと思っていたら、やはりそうだった。自殺防止キャンペーンの一助になればという思いで書かれた作品なのかも知れないが、本気で死のうと思う人間がこの舞台を観たとしても、その決意を翻させることは不可能だろう。


    ■「スパイラルベイビーのおと」 
     [出演:守田慎之介(演劇関係いすと校舎)]×[脚本・演出:平林拓也(ユニット成長剤)](行橋)
     満足度:★★

     九州勢の中では、これが一番マシだった。
     しかしそれも「一応、一人芝居として成立させるためのアイデアがある」ということであって、面白かったというほどではない。
     舞台は白いラインで三分割されており、シャツをはみ出させた男が、ラインを越えて場所を移動する度に、別人を演じていく。一人は、死にかけた妻のために、他人を笑わせようとする男(なぜか他人を笑わせると妻の寿命が延びるのだそうだ)。一人は、就職難で、面接を受けまくっているが、頓珍漢なことを言っては落ちている男。もう一人は、妻に浮気を疑われて離婚したものの、子供の親権で係争中の男。
     この全く無関係に見える三人は、どんな関係があるのか。とかくといかにも大層な謎のようだが、この手の話は概ね次の三パターンのいずれかだ。
     (1) 三人が出遭って、新たなドラマが始まる。
     (2) 三人がぶつかって、人格が入れ替わる。
     (3) 三人と見えて、実は一人の人間の多重人格である。
     一人芝居だから、(3)の可能性が高いなあと思って観ていたら、やっぱりそうだった。発想が悪いとまでは言わない。しかしこのネタは、もう手垢が付きすぎているのである。「あれっ、そこにいた人がいない」と一人が言いだして、多重人格ネタであると確信してから後が長くて退屈なこと。
     こういうワン・アイデア・ストーリーは、短編で、最後の最後に意外な結末で「落とす」のが心臓のようなものなので、途中で大半の観客にネタが割れてしまうのは、致命的と言われても仕方がないのである。


    ■「暗くなるまで待てない!」
     [出演:横田江美(A級MissingLink)]×[脚本演出:土橋淳志(A級MissingLink)](大阪)
     満足度:★★★

     主人公は盲目の少女である。かつては母親が教祖であった新興宗教団体で、盲目の巫女として神託を告げる役割を果たしていた。しかし母親が死んで、今は細々と占い師をして暮らしている。
     ある時、かつて教団にいた男が現れて、隠し財産を寄越せと強要してくる。拒む少女。さらには、近くで虐待に堪えかねて父親を殺してきた少年も、少女のところに転がり込んでくる。久しぶりに人に触れ合って、優しさを取り戻していく少女。だが、破局はもうすぐそこまで来ていた。
     ある晩、いきなり留守宅に上がり込んできた男が、強盗と化し、少女を殺そうとした。恐怖に駆られ逃げまどう少女。電灯を壊し、暗闇の中で対峙する二人。しかし少女が有利だったのは最初だけで、じきに男に掴まってしまう。殺される寸前、男を引き離し、彼女を助けた「誰か」がいた。それは自首するために出ていったと思われていた少年だった。少年は男を倒す。そして再び、少女の下から去っていく。
     翌日、少女は驚くべき事実を警察から聞かされる。少年は、昨晩、“少女の部屋に帰ってくる以前に”川に落ちて死んでいた……。
     タイトルで、オードリー・.ヘプバーンの最後の主演映画である『暗くなるまで待って』を連想した観客は多いだろう。
     盲目の女性の屋敷に、強盗が忍び込んで、しかし明るいうちは、強盗に有利、でも暗くなれば、敵と自分と、条件は同じ、逆転勝利の可能性はある……というシーンは確かにラストに存在するが、そこに至るまでの話が長い。「暗くなるまで待てない」のは観客の方だったりする。
     もっともそのあとに、強盗から女性を守ったのは、“眼には見えない”ある少年の幽霊だということが明かされる。主人公の盲目が、しかも一人芝居であるため、少年の姿は“観客にも見えない”ことを巧く利用して、よくあるオチではあっても、最後まで少年の正体に気付かせないトリックは秀逸。実際、私も引っかかった。だって「見えないのが当たり前」と思っていたのだもの。これは「演劇だからこそ仕掛けられる叙述トリック」である。
     確かに、そこに至るまでの過程は長い。しかしその長さは、全てこのラストの意外性を生かすために必要なドラマだった。演者の演技が生硬で、平板な印象を与えてしまうのはマイナス点だが、この一人芝居をミステリーのトリックとして使用した点において、前の「スパイラルベイビーのおと」よりも優れている。同じく一人芝居の裏技を仕掛けた井上ひさしの『化粧』に匹敵するものとして、高く評価されるべきだと考える。


     一人芝居の演者が、客席に向かって語りかける。
     語りかけている相手は、一見すると我々観客であるかのように見える。
     漫談ならそうだ。しかし「演劇」においては、演者の対象は必ずしも観客に限定されるものではない。ドラマの中の相手だろう、という解釈も、「設定」としてはそうなのだが、正確を期するならそう断定は゛きない。
     「演劇空間」というのは、端的に言えば、そこにその時だけ存在する「異空間」、一種の「別世界」を創り出すことだ。それが最もプリミティブな形で構築されるのが「一人芝居」である。
     演者が対峙しているのは、「世界」あるいは「宇宙」そのものだ。茫漠として具体的な形を備えてはいない「概念」そのもの、しかしそれは確実にそこに存在している。
     他の演劇、即ち対話劇の場合、「相手」は具体的な形を伴うがゆえに、世界の構築もまた二者間の距離と、演技の内実によって、舞台上に形成されるのが基本だ。しかし一人芝居の場合は、演者と観客が“見ている”対象は「同じもの」だ。即ち、「世界」は実は舞台上に留まらない。ともすればそれは一気に劇場から外に飛び出し、宇宙にまで拡大する。
     一人芝居と通常の舞台との明確な違いはその点にある。
     言い換えるなら、普通の舞台の場合、ドラマは舞台上にあり、それを観客は見たままに解釈するが、一人芝居の場合はそうではない。我々が見ているものは、いや、「見ようとしているもの」は、演者の演技、言葉を通した「向こう側」にある「世界」なのであって、我々もまた想像力を駆使しないことには、その世界は決して見えては来ないのだ。
     そんな「得体の知れないもの」がなぜ演者ばかりでなく、我々にも共有することが可能なのかというと、我々の脳が行う「認識」「理解」という作業自体が、基本的には「得体の知れないものに言葉を与える作業」だからなのだ。
     従って、「世界」を構築できない一人芝居は、演劇として成立し得ない。宇宙が見えていない演者に、観客にも宇宙を感じてもらうことは不可能である。今回の一人芝居フェスティバル、彼ら彼女らに、宇宙は見えていたのだろうか。

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    2012/08/16 03:03

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  •  稚拙な当てこすりが常態化しているFPAPの高崎大志氏であるが、またまたTwitterで次のような内容の書き込みをしていた。

    高崎@福岡 ‏@tahahahi
     なんだろうね。この非対称さというか。ムーンサルトの着地で足がぐらついて、それをみている素人が「そんなんじゃ、全然ダメだ。基礎がなってない基礎が!」みたいに上から言う滑稽さというか。本人は気づいてないのだろうけど。

     ものすごく難しいことを、できて当たり前のところから話せるのが、素人さんの特権なのかもしれない。もうちょっと素人っぽく発言してくれたらいいのだけど(笑)。自分もシュートを外したプロサッカー選手をテレビで見て罵ったことがあるから、これからは気をつけよう。

     運動家に限って、一般市民を自称する傾向がある。自らを自称して、自分は一般市民だとか、一般○○だと自称する場合は、要注意。ってか、なんで自分で気づかないんだろう?

     呟けば呟くほど、かえってその愚かしさを衆目に晒してきた高崎氏だが、今回はまた特に酷い。殆ど妄想の域に達している。

     福岡や九州の演劇人たちの舞台を「ムーンサルトの着地」に譬えているのだろうが、そんな高度な技術を彼らが持ち合わせていると、本気で思っているのだろうか。今回の一人芝居フェスでも、九州代表で、新奇で斬新な、あるいは演技をとことんまで追求した舞台は一つもなかった。どこかで観たことのあるような、二番煎じ、三番煎じ、それもかなり使い古された手法の作品ばかりで、「いったい、この作り手たちは、一人芝居で何を表現したいのか」、それがいっこうに伝わって来ない。実際、客席が沸いていたのは「柿喰う客」の上演のみで、他の上演作は、身内客が殆どだったにもかかわらず、あくびやタメイキがしばしば漏れていた。
     高崎氏の「素人」云々の発言も、彼が演劇というものを根本的に理解していないことを証明している。観客がみんな「素人」なのは当たり前の話ではないか。演劇は素人に向けて見せるものだ。まともな演劇人なら、異口同音にそう言う。つまり高崎氏は、自分たちの作る芝居は極めて高尚で、身内客もみなハイレベルな演劇の玄人で、素人である一般客に理解できるはずがない、と思っているのである。一般客を常に上から目線で見下しているから、言葉の端々にその差別意識が現れる。自身の「思い上がり」に無自覚なのは高崎氏の方であるし、彼らとつるむ連中も中身は大同小異だ。だから彼らの作る舞台は、身内客以外の一般人の心を動かすことができない。

     私の感想に関してだろう、「難しいことをできて当たり前のように話す」と揶揄しているが、難しいことなんて何一つ書いてはいない。私が九州勢を総じてレベルが低いと断じるのは、「なぜ一人芝居にしなければならないのか」、そんな基本的なことすら考えていない舞台ばかりだったからだ。そんなことは一人芝居を作る上では考えるのが当然だ。現に、大阪のA級MissingLinkは、事前にそう発言している。なのに高崎氏には、これが「とても難しい要求」であるかのように映るらしい。
     本文では、術語、専門用語を使うのは避けたが、一人芝居の演者が認識しなければならないことは、舞台は記号的なものであってはならない、ソシュールの言うシニフィエ(観念)をいかに観客と共有しうるか、それが演劇の基本であり、表現の基本だ、ということなのだ。私としてはそれをもっと通じやすいように、舞台上に観客と共有できる「世界」ないしは「宇宙」を作らなければならない、と説明したのだが、それでも高崎氏の貧弱な頭脳では、「難しすぎた」らしい。即ち、高崎氏は、自分が演劇はおろか、表現とは何か、それすら知らない、考えたこともない、ということを無自覚にも自白してしまっているのである。
     別に、言語学やら演劇理論やら勉強しなくてもさ、それこそ「素人」だって、普通にものを考えれば、どんなに言葉や身振りを尽くしても、気持ちが相手に完全に伝わることはない、だから演劇は、気持ちを「説明」するんじゃなくて、「演技」で観客に「想像」させることを旨とする、ということに気付くものだ。それに全く気付いていない高崎氏のレベルの低さ、彼が演劇に携わっていられる時点で、福岡の演劇界のレベルの低さも露わになってしまっているのである。

     殆ど常軌を逸しているのが「一般人を名乗るのは運動家だ」という件で、確かに世の中には、シーシェパードとか、一般人のフリをした運動家もいることはいるが、だからって、一般人≒運動家にはならないでしょ。第一、私が何の運動をしているのか。私は何のグループにも属していないし、誰かを煽動したりもしていないぞ。「一般人」という言い方をせざるを得ないのは、福岡の観客にあまりにも「演劇関係者」、「身内客」が多いからだ。CoRichの常連投稿者も殆どがそうではないか。これではどんな感想を書かれてもみんな「身内誉め」しているだけだろうとしか思われない。これがどんなに異常な状態か、彼らはまるで無自覚、無関心なのだ。
     私が、ほぼ全ての劇団と無関係なことを強調するためには、「一般客」という言い方をするしかない。
     私が口にしているのは、「この芝居は面白い、つまらない」というただの感想である。また「作品がいったん発表されたら、それは作者の手を離れて観客のものになる。当然、批評や感想も観客のものである」と、それこそ誰も否定したことのない「常識」を口にしているだけだ。そこには何の裏もないし、何度も書いている通り、作り手に向かってああしろこうしろなんて命令もしていない。
     それなのに私が何らかの「運動家」のように見えるとしたら(本当に、何の運動をしているように見えるのだ?)、高崎氏は何らかの妄想に取り憑かれていると判断するしかない。
     だいたい、高崎氏自身も、しょっちゅう「一般客の視点で」と口にしていたではないか。高崎氏子飼いで、FPAPの宣伝マンになっているteruさんやら、ひろやんやらも、あれだけ劇団にずるずるべったりなのに、「一般人」と言い張っている。なら、一番の「運動家」は「高崎一派」だと言うことになるのではないか? こういうところも、高崎氏がろくにものを考えずに発言している一例である。
     高崎氏は、自分がどれだけ「非常識」で「滑稽」な振る舞いをしているか、なぜ気付かないんだろうね?

     妻に難癖を付けて粘着した時もそうだったが、高崎氏には作品を「内容批評」するスキルを全く持っていないのである。ダブルスタンダードが頻発するのも、論理的な思考能力に欠陥があるからだ。それは明らかに彼の劣等コンプレックスに繋がっている。しかもそれは自省が利かないほどに彼の心の中で渦巻いているようだ。
     こういういかれた手合いには関わり合いにならない方が無難だと思うが、それが「運動」や「煽動」じゃないかと言われそうだな。いえいえ、たかが「一般客」の「素人」の言質などに、高尚で「玄人」な「身内客」のみなさんが、洗脳されることなどありますまい。
     実際、地元の「演劇ムラ」の馴れ合い芝居なんて、ついでや義理がない限り観る気はないので、素人を当てこすってる暇があれば、身内客の拡大に努めればよろしいと思うのである。

    2012/08/21 22:30

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