満足度★★
あなたはそこにいますか
今回の一人芝居フェスティバルの内容が、「九州公募枠4組」+「東京・大阪招聘2組」と聞いて、首を傾げた。
ある程度の回数を重ねて、一人芝居のノウハウが九州の演劇人たちに蓄積されているという確認が出来てからならともかく、今回は「第1回」である。ただでさえ、九州は演劇人の養成システムが確立していないのに、この配分はおかしかろう、招聘作品5組、九州公募作品が1組、ここから始めるのが妥当なのではないか、そう思ったのだ。
不安は的中して、九州4組の出来はかなり酷いものだった。いずれも「舞台で台詞を喋っているだけ、動いているだけ」で、演技の体を成していない。これでは観客はおいてきぼりだ。たとえ一枠に絞ったとしても、東京の劇団「柿喰う客」の足元にも及ばない。
なぜこんな構成にしたのか、単に各地から劇団を呼ぶには予算がなかったからなのか、それとも本気でフェスティバルが成立すると考えていたのか、製作の思惑が後者だとしたら、脳天気にもほどがあろう。
観客席を埋めていたのも、会話を聞く限りでは殆どが劇団関係者や身内客であり、一般客の姿はたいしていないようだった。こういう集客は「マッチポンプ」と言うのであって、もっと厳しい言い方をすれば、「一般客の排除」である。何をやってるんだとしか言いようがない。
地元劇団を偏愛するあまり、地元劇団をヨイショするような企画ばかり立てていたのでは、地方演劇の振興には何一つ寄与はしないだろう。そんな余計なことを考えている暇があったら、中央の劇団をもっと呼んできて公演を増やした方が、よっぽど「井の中の蛙」たちに「地元でやったっていつまで経っても蛙のまま」という認識を持たせることになる。それをしないのは、福岡の演劇人たちは「蛙のままでいい」という認識なのだろう。決して貶さずただ誉めよう、という幼稚園のお遊戯会である。
実のところ、こちらの目当ては「柿喰う客」だけだったから、他のとこの出来云々はどうでもよかったのだけれど、私らフツーの客の「時間」は、彼らの非力のためにしっかり殺されたのである。
2012/08/21 22:30
高崎@福岡 @tahahahi
なんだろうね。この非対称さというか。ムーンサルトの着地で足がぐらついて、それをみている素人が「そんなんじゃ、全然ダメだ。基礎がなってない基礎が!」みたいに上から言う滑稽さというか。本人は気づいてないのだろうけど。
ものすごく難しいことを、できて当たり前のところから話せるのが、素人さんの特権なのかもしれない。もうちょっと素人っぽく発言してくれたらいいのだけど(笑)。自分もシュートを外したプロサッカー選手をテレビで見て罵ったことがあるから、これからは気をつけよう。
運動家に限って、一般市民を自称する傾向がある。自らを自称して、自分は一般市民だとか、一般○○だと自称する場合は、要注意。ってか、なんで自分で気づかないんだろう?
呟けば呟くほど、かえってその愚かしさを衆目に晒してきた高崎氏だが、今回はまた特に酷い。殆ど妄想の域に達している。
福岡や九州の演劇人たちの舞台を「ムーンサルトの着地」に譬えているのだろうが、そんな高度な技術を彼らが持ち合わせていると、本気で思っているのだろうか。今回の一人芝居フェスでも、九州代表で、新奇で斬新な、あるいは演技をとことんまで追求した舞台は一つもなかった。どこかで観たことのあるような、二番煎じ、三番煎じ、それもかなり使い古された手法の作品ばかりで、「いったい、この作り手たちは、一人芝居で何を表現したいのか」、それがいっこうに伝わって来ない。実際、客席が沸いていたのは「柿喰う客」の上演のみで、他の上演作は、身内客が殆どだったにもかかわらず、あくびやタメイキがしばしば漏れていた。
高崎氏の「素人」云々の発言も、彼が演劇というものを根本的に理解していないことを証明している。観客がみんな「素人」なのは当たり前の話ではないか。演劇は素人に向けて見せるものだ。まともな演劇人なら、異口同音にそう言う。つまり高崎氏は、自分たちの作る芝居は極めて高尚で、身内客もみなハイレベルな演劇の玄人で、素人である一般客に理解できるはずがない、と思っているのである。一般客を常に上から目線で見下しているから、言葉の端々にその差別意識が現れる。自身の「思い上がり」に無自覚なのは高崎氏の方であるし、彼らとつるむ連中も中身は大同小異だ。だから彼らの作る舞台は、身内客以外の一般人の心を動かすことができない。
私の感想に関してだろう、「難しいことをできて当たり前のように話す」と揶揄しているが、難しいことなんて何一つ書いてはいない。私が九州勢を総じてレベルが低いと断じるのは、「なぜ一人芝居にしなければならないのか」、そんな基本的なことすら考えていない舞台ばかりだったからだ。そんなことは一人芝居を作る上では考えるのが当然だ。現に、大阪のA級MissingLinkは、事前にそう発言している。なのに高崎氏には、これが「とても難しい要求」であるかのように映るらしい。
本文では、術語、専門用語を使うのは避けたが、一人芝居の演者が認識しなければならないことは、舞台は記号的なものであってはならない、ソシュールの言うシニフィエ(観念)をいかに観客と共有しうるか、それが演劇の基本であり、表現の基本だ、ということなのだ。私としてはそれをもっと通じやすいように、舞台上に観客と共有できる「世界」ないしは「宇宙」を作らなければならない、と説明したのだが、それでも高崎氏の貧弱な頭脳では、「難しすぎた」らしい。即ち、高崎氏は、自分が演劇はおろか、表現とは何か、それすら知らない、考えたこともない、ということを無自覚にも自白してしまっているのである。
別に、言語学やら演劇理論やら勉強しなくてもさ、それこそ「素人」だって、普通にものを考えれば、どんなに言葉や身振りを尽くしても、気持ちが相手に完全に伝わることはない、だから演劇は、気持ちを「説明」するんじゃなくて、「演技」で観客に「想像」させることを旨とする、ということに気付くものだ。それに全く気付いていない高崎氏のレベルの低さ、彼が演劇に携わっていられる時点で、福岡の演劇界のレベルの低さも露わになってしまっているのである。
殆ど常軌を逸しているのが「一般人を名乗るのは運動家だ」という件で、確かに世の中には、シーシェパードとか、一般人のフリをした運動家もいることはいるが、だからって、一般人≒運動家にはならないでしょ。第一、私が何の運動をしているのか。私は何のグループにも属していないし、誰かを煽動したりもしていないぞ。「一般人」という言い方をせざるを得ないのは、福岡の観客にあまりにも「演劇関係者」、「身内客」が多いからだ。CoRichの常連投稿者も殆どがそうではないか。これではどんな感想を書かれてもみんな「身内誉め」しているだけだろうとしか思われない。これがどんなに異常な状態か、彼らはまるで無自覚、無関心なのだ。
私が、ほぼ全ての劇団と無関係なことを強調するためには、「一般客」という言い方をするしかない。
私が口にしているのは、「この芝居は面白い、つまらない」というただの感想である。また「作品がいったん発表されたら、それは作者の手を離れて観客のものになる。当然、批評や感想も観客のものである」と、それこそ誰も否定したことのない「常識」を口にしているだけだ。そこには何の裏もないし、何度も書いている通り、作り手に向かってああしろこうしろなんて命令もしていない。
それなのに私が何らかの「運動家」のように見えるとしたら(本当に、何の運動をしているように見えるのだ?)、高崎氏は何らかの妄想に取り憑かれていると判断するしかない。
だいたい、高崎氏自身も、しょっちゅう「一般客の視点で」と口にしていたではないか。高崎氏子飼いで、FPAPの宣伝マンになっているteruさんやら、ひろやんやらも、あれだけ劇団にずるずるべったりなのに、「一般人」と言い張っている。なら、一番の「運動家」は「高崎一派」だと言うことになるのではないか? こういうところも、高崎氏がろくにものを考えずに発言している一例である。
高崎氏は、自分がどれだけ「非常識」で「滑稽」な振る舞いをしているか、なぜ気付かないんだろうね?
妻に難癖を付けて粘着した時もそうだったが、高崎氏には作品を「内容批評」するスキルを全く持っていないのである。ダブルスタンダードが頻発するのも、論理的な思考能力に欠陥があるからだ。それは明らかに彼の劣等コンプレックスに繋がっている。しかもそれは自省が利かないほどに彼の心の中で渦巻いているようだ。
こういういかれた手合いには関わり合いにならない方が無難だと思うが、それが「運動」や「煽動」じゃないかと言われそうだな。いえいえ、たかが「一般客」の「素人」の言質などに、高尚で「玄人」な「身内客」のみなさんが、洗脳されることなどありますまい。
実際、地元の「演劇ムラ」の馴れ合い芝居なんて、ついでや義理がない限り観る気はないので、素人を当てこすってる暇があれば、身内客の拡大に努めればよろしいと思うのである。