so complex semi-normal 公演情報 so complex semi-normal」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★★

    「イマ」満載
    なう…もとい「イマ」満載。
    昨今の事件を起こした…あるいはその予備軍的な事件を起こしても不思議がない若者たちの形成過程・内面をまざまざと見せられた感じ。
    また、複数で同じ人物を演じたり、時を隔てた場面をモーフィングのように繋ぐなどの表現も◎。(がしかしそれゆえ舞台を観慣れていないとワカりにくいかも?)

  • 満足度★★★★


     完全な裸舞台。床はコンクリート剥き出し、位置確認用の文様が描いてあるだけでシンプルそのものだ。観客は舞台空間を挟むようにシンンメトリカルに位置する。無論、これにはメッセージが込められていよう。プロトシアターという劇場名からもそれは推して知れる。
    これだけで劇場が出来するということだ。つまり劇団は、劇場とは、役者と観客が存在し、其処で身体表現が行われる場と規定しているのである。役者の表現と観客の想像力との真っ向勝負だ。余分な物は無い。
    さて、現代を一言で言い表すとしたら”不信の時代”だろう。大分前に、本のタイトルにもなった表現ではあるが。実際、再稼働の決まった大飯原発と言い、原子力村やこの国の政府といい、多くの企業といい、全幅の信頼を置かれるような存在がこの国に今あるか? と問われたら多くの人が、口ごもってしまうだろう。そもそも、そんな問い自体がナンセンスだと失笑を買うのがおちか。
     いずれにせよ、この様な状況が、日常の隅々にまで蔓延している場所で、対自存在である我々が、自己認識するというのは、大変なことに違いない。今回、拘束ピエロは、「So complex semi-normal」でこの問題に果敢にチャレンジした。用いられるのは、出演者らの実体験をも含む思い出と真っ直ぐ向き合うことによる、或いは、関わりのあった人々との関係を問い直すことによる、~ごっこという形態のidentifyである。様々なごっこが表現される。虐待、性、虐め、生・死。これらに対置されるのは傷と痛みである。この構造は終始一貫している。彼らがこれらを提示したことには、無論、深い意味がある。虐待について言えば、虐待する者とされる者が居るわけであるが、そのどちらもが他者を必要としている。役者たちはそのことを知っていて、互いを互いの鏡として提示しているのである。因みにこの作品の構造が、これら様々な鏡像を提起し、同時に割れた鏡面によって傷つく自らの存在を辛うじて認識しているとすれば、これらのフラグメンツは不信社会の正に鏡。
    そして、この歪んだ世界観を若者に強いる社会こそ日本だという痛ましいメッセージである。

  • 満足度★★★★

    男子の偏差値
    一軒家プロレスじゃないけど誰かの隠れ家を貸切状態でお芝居を観る感じ。
    荒川ユリエルさん率いる若い劇団が、まさに今だから表現できるテーマ。
    運動部並みの運動量で、10代の痛みにもう一度塩をすりこむようなひりひりした舞台だった。

    ネタバレBOX

    劇場に入ると硬い床の上にいくつかの○が描かれている。
    客席は右と左の二方に分かれている。
    開演10分前くらいから、役者さんがしゃがんだり携帯をいじったりしながら
    舞台に留まっている。
    まだ客入れは続いている。
    半分始まって半分準備中みたいな感じが面白くて眺めていた。

    やがて主催の荒川ユリエルさんが挨拶して深くお辞儀、
    顔を上げた時には右の頬に黒いバッテンのテープが貼られて
    怪我をした顔で芝居が始まった。

    5人の男子が順番に思い出を語り始める──。
    記号のように名前が入れ替わり、お前誰だっけ、誰でもいいや状態が廻る。
    彼らは他人との偏差値の中で自分の存在価値を見いだそうとする。
    自分はあいつより強いはずだ、もてるはずだ、できるはずだ、上なはずだ・・・。
    一番下の者はいじめられ、サンドバックにされ、優越感の確認対象みたいに扱われる。
    時には性的な興味と発散の対象として支配下に置かれたりもする。
    「──な~んて事は無かったけど」のひと言で
    マジ同情していた客はハズされたりもするわけだが。
    本当はあったことなのに、無かった事にしたいのか・・・。

    怪我したのは自分なのに、いつのまにか被害者である自分が仲間外れにされる、
    という仲間意識のすり替えみたいな残酷さや
    いじめられながら「自分がいなければこいつは困るだろう」と考える
    存在意義の歪んだ見いだし方など10代特有の煮詰った学校生活が、
    はじけるような躍動感あふれる動きと交差しながら描かれる。

    実際の役者さんの年齢が20代だから
    思い出を語ってもまだ新しく、それだけに再現場面はリアルだ。
    まだまだ痛みの記憶を引きずっているうちに表現しておくにはベストのタイミング。
    体力的にもハンパない運動量だし。
    役者がその時しかできない表現ってこういうものなのかも、と思う。

    台詞にリズムがあって、5人が声をそろえるところなど
    共有する秘密が浮き彫りになるようで秀逸。
    同時多発的な台詞や会話が飛び交うのもリアリティがあって
    “人の話を聞いてない”社会のイマドキ感を感じる。
    5人の台詞力が均一でこぼれる所がないから成立する演出かもしれない。
    作品全体に何か作者の潔癖な性格が見え隠れするのも面白く感じた。

    制服を思わせる白いシャツに黒またはグレーのパンツという衣装も効果的。
    若い人の現実を眺めながら、実はいい大人もちっとも変っていないのだと愕然とする。
    相変わらず他人や社会の偏差値の中でしか存在できない自分を再確認して鬱々…。

    フライヤーやチケットの色の美しさ、
    台詞の重ね方と、激しいがきれいな動きにこの劇団のセンスを感じる。
    20代でこれを作る人が、これからどんなことにフォーカスし、
    どんな台詞を書くのか、提示する普遍性をぜひ観てみたいと思う。
  • 満足度★★★★

    劇的なことなんてそんなに無いよね
    群れになったバッタが黒く変色して凶暴になるような感じというか。

    ネタバレBOX

    青年たちが過去の思い出を語ろうとする話。幸せなことはあまり幸せと感じないものの、不幸なことは強く印象に残るのでどうしても不幸自慢みたいになりがちで、かと言ってそもそもそんなに劇的な思い出がないので、不幸な思い出を捏造したりしているうちに、個ではおとなしかったバッタが群れになって黒く変色し凶暴になるような感じのパフォーマンスでした。

    銘々が勝手に動いているようで、台詞が重なるところや、生演奏というか効果音がピタっと合うところなど良かったです。

    なんちゃって、って、ネツだと言いながら、阪神淡路大震災の話は本当のような気もしています。

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