満足度★★★★
鏡
完全な裸舞台。床はコンクリート剥き出し、位置確認用の文様が描いてあるだけでシンプルそのものだ。観客は舞台空間を挟むようにシンンメトリカルに位置する。無論、これにはメッセージが込められていよう。プロトシアターという劇場名からもそれは推して知れる。
これだけで劇場が出来するということだ。つまり劇団は、劇場とは、役者と観客が存在し、其処で身体表現が行われる場と規定しているのである。役者の表現と観客の想像力との真っ向勝負だ。余分な物は無い。
さて、現代を一言で言い表すとしたら”不信の時代”だろう。大分前に、本のタイトルにもなった表現ではあるが。実際、再稼働の決まった大飯原発と言い、原子力村やこの国の政府といい、多くの企業といい、全幅の信頼を置かれるような存在がこの国に今あるか? と問われたら多くの人が、口ごもってしまうだろう。そもそも、そんな問い自体がナンセンスだと失笑を買うのがおちか。
いずれにせよ、この様な状況が、日常の隅々にまで蔓延している場所で、対自存在である我々が、自己認識するというのは、大変なことに違いない。今回、拘束ピエロは、「So complex semi-normal」でこの問題に果敢にチャレンジした。用いられるのは、出演者らの実体験をも含む思い出と真っ直ぐ向き合うことによる、或いは、関わりのあった人々との関係を問い直すことによる、~ごっこという形態のidentifyである。様々なごっこが表現される。虐待、性、虐め、生・死。これらに対置されるのは傷と痛みである。この構造は終始一貫している。彼らがこれらを提示したことには、無論、深い意味がある。虐待について言えば、虐待する者とされる者が居るわけであるが、そのどちらもが他者を必要としている。役者たちはそのことを知っていて、互いを互いの鏡として提示しているのである。因みにこの作品の構造が、これら様々な鏡像を提起し、同時に割れた鏡面によって傷つく自らの存在を辛うじて認識しているとすれば、これらのフラグメンツは不信社会の正に鏡。
そして、この歪んだ世界観を若者に強いる社会こそ日本だという痛ましいメッセージである。