実演鑑賞
満足度★★★
同時上演の『Le Fils 息子』と同じく家族に訪れる危機を巧みに描いた一作。家父長制を基盤とする「家族」に生じる歪みを描き、子が自立した母に訪れる「空の巣症候群」を通して「母」という存在を問い直しているという点では今の日本で上演する意味も大いにある作品だと言える。
だが、上演時間の大半を母の「狂気」を描くことに費やし、しかもそれをことさらに笑えるものであるかのように提示する手つきには疑問を感じる。妄執に取り憑かれた母の姿はたしかに滑稽かもしれないが、それは本人が真剣だからこその、ほとんど悲愴と見紛うばかりの滑稽さであるはずだ。
実演鑑賞
満足度★★★
久しぶりに二日続けての演劇鑑賞。それも格調高そうな交互上演の2作品なので期待大だった。しかし昨日の息子の方はまあ普通だが今日の母にはガッカリ。演出の都合上内容が薄いのは仕方がないがそれにしてもこちらの想像を一歩も出ないストーリーには呆れてしまった。
まあこんなストーリーで商売が成り立つのはフランスの事情なのだろう。チェーホフの描く没落貴族の贅沢な悩みと同じだ。木戸銭を払うことのできる階層相手に商売をしているわけだ。日本のお父さんは家庭内の居場所は早々に失い、定年で会社という居場所も失うという悲惨な状態なのだが、彼らは演劇なんか観ないので芝居になることはない。そしてこんな母よりもっとたくましい(=鈍感ともいう)。
若村麻由美さんの熱演がかろうじて芝居の形を作っていた。それでようやく☆3つ。
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2024/04/12 (金) 14:00
座席1階
心の内外、つまり妄想と現実がクロスオーバーするような筋立て、演出で、舞台から目が離せない迫力ある作品だったが、なにせ後味が悪い。どよーんという重苦しい空気が劇場を包む。それだけ作品にインパクトがあるということだろうが。
父、息子、そして母という家族三部作の一つ。フロリアン・ゼレールの作品で、世界中で上演され映画化もされているという。今回の「母」のテーマはエンプティ・ネスト(空の巣)症候群。家庭の主婦として子どもたちを育て上げ、そればかりに力を注いだ果てに、子どもたちが巣立っていったときの空虚感に心が折れる。仕事ばかりで妻を省みず、さらに浮気までという夫の行状が追い打ちを掛ける。舞台は冒頭から、ほとんど正気ではない妻の状況が展開される。
最初からこのような追い詰められた状態なのだから、これがエスカレートしていけば破局は明白だ。仕事に浮気で忙しいが、そうはいっても妻に視線を少しは向けようとする夫が哀れにも思える。息子を溺愛し、息子の彼女にまで悪態をつく妻は醜悪だ。ラストシーンもさることながら、こうした場面場面にもはや、ため息をつくしかない。だが、そんな筋書きでも目が離せないのは、息をもつかせぬ緊迫感がずっと舞台に張り詰めたままだからだ。
そうした舞台を実現した若村麻由美の演技に拍手を送りたい。最初から最後まで彼女の独壇場である。お見事の一言に尽きる。
テーマはエンプティ・ネストだが、そこに至るまでに既に家庭には修復不能な大きなひびが入っている。息子は自立したいと考えていたようだが、母の溺愛にからめ捕られてしまって身動きが取れない。一直線に破局に向かう前に、何らかの救いの手はさしのべられなかったのか。やはり、後味が悪い。
実演鑑賞
満足度★★★★
「父」をやった頃は公演情報にも触れなかった(多分現代翻訳劇にさほど食指が動かなかった)が、「息子」は観たくなって岡本父子共演を観た。息子が亡くなったという事実に直面できない父が最終的に死と向き合う話だったか、逆だったか・・実際には分かり合えなかった息子と「出会い直そうとする」父の姿があったと朧げに記憶する。
生活問題・金銭問題を捨象した近代的な室内で、家族の「関係性」のみを描写対象としたドラマであった点に、当時私は限定的な評価をしたように思い出しているが、観劇日はそんな事は一切忘れ、今回のゼレールの家族シリーズ第三作という事と、目玉である俳優・若村麻由美ともう一人いた(舞台上で伊勢佳世だったと確認)を観に行った。
若村氏の役者力炸裂であった。遅く戻った夫を迎える彼女が、認知の障害が危ぶまれるかと思うような応答をする。夫を翻弄するために敢えて演じている(身体をコントロールしている)のではなく、コミュニケーション意欲満々でいながら「そうなってしまう」内的必然性が「ある」と感知させる演技の流れがあり、圧倒され始めるのだが、その序盤はそれを受ける側の夫の当惑を想像して笑ってしまいそうになる。
そこで例によっての話だが、隣に地声の大きな、笑いが声に出る(しかも1テンポ遅れて次の台詞にかぶせて来る)男性がいて、「まじか・・」と自分の不運を嘆きそうになったが、何度目かの笑いのタイミングでため息と同時に姿勢をぐいっと変えるアピールした後は、どうやら自制をして下さった。さすがに入場料の額が札ビラの画像と共に頭をよぎったが・・助かった。
演技モードと照明と、若干の台詞の変化のある同じ場面が、不規則にリプレイされる構成が意味深で、今は何の場面なのか、訝りつつも場面の(日常性豊かな場面でさえ)張り詰めた空気に目が釘付けになっている。現実の場面なのか、彼女の想像なのか、実際の場面の回想(再現)なのか、彼女の記憶の再現なのか、あるいは上書きされた記憶なのか・・。
さほど違いのない(若干のニュアンスの違いはある・・淡泊だったり明るかったり)シーンの繰り返しは、彼女の認知と記憶は正確だが主観が反映されてる、という事が示されてるのか、法則性のある展開のされ方でないから、観る者にとっての拠り所もない。認知症患者の心情を想像した事があるが、自分の認知と記憶がブレている事それ自体に、彼らは不安を覚えている。パーになった訳ではないのだ。それゆえ、とも言えるが感情が増幅したり、逆に無気力(諦め)になったりする。
話は子供が自分の手を離れた寂しさから、不安定になった母の内面のループ化した変化の軌跡のようでもあり、現実での変化のようでもある。
後半になるとエッジの鋭い場面が訪れる。人生の目的を見失った母は、あろう事か息子の彼女をあからさまに敵視し、排斥して息子を自分の物に(まるで恋人のように)しようとするが、これに対しその恋人はあっさりと明るく「自分たちは若くて先が長い。貴方は残り少ない」と母に死刑宣告をする。また明らかに母の妄想だろう、夫とその愛人が妻の前で平気でジャレつつ出発していく場面。すなわち同じ場面の中で両者の認知がズレを起こしている。
だが認知の混沌は、主体が湛える感情の真実性を壊すものではない・・人は理解の壁に対面した苦しみを超えるため、そう信じようとする。感情は嘘がつけず、人はそこに真実の効能でもある信頼と安堵を見出す。
母は自身の人生への嘆きを、心を委ねる者の腕の中で、心を込めて嘆く。その姿を残像に最終暗転、芝居は終わる。
前公演と同様、本作も仏の演出家と装置家により作られた。発語のニュアンスの違いを、場面の変化に反映させ、構築する作業が、異言語によって進められた事に素朴に感心する。作為のない瞬間が一瞬もない精緻に作られた芝居。
実演鑑賞
満足度★★★★
5,6年前に作者ゼレールは「父」で、認知症の高齢者がみる世界を観客に体験させて、鮮烈な日本デビューを果たした。全く知らない人たちの住む別の場所と思ったら、それはよく知る娘夫婦の家だったというような。別々の俳優が演じるのがじつは同一人物という奇策で、当然別人と思っていた観客にもショックを与えた。
前置きが長くなったが、「母」はこの手法の延長にある。舞台で起きていることは、現実なのか、母(若村麻由美)の脳内妄想なのか。最後になるまで、その境目がわからない。
子離れできない母親の「からの巣症候群」を描いたということになる。極端すぎる気がするが、そこが妄想の妄想たるところなのだろう。でも「父」の変化球や、「息子」の多声性とどんでん返しに比べて、少々一本調子のように思った。