浮標(ブイ) 公演情報 浮標(ブイ)」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.7
1-15件 / 15件中
  • 満足度★★★★★

    2011.2.12観劇
    2011.2.12観劇 感想は後日

  • 満足度★★★★★

    ぞっくぞく
    ここまで満足した芝居を観たのは何年振りだろうか?スタイリッシュな演出かと思えば、情熱的なシーンもあり、何よりも4時間まったく絵変わりのしないセットであそこまで心の機微、変化を魅せられるのは何よりも役者の力量か・・・?とにかくとてつもないモノをみせてもらいました。第2回公演も期待しています。

  • 満足度★★★★★

    本当に観てよかった
    4時間と聞いて心配しつつ観に行ったのだが、とんでもなく良かった。作者・三好十郎の実生活を戯曲にしたような作品で、愛する妻の看病に専心する主人公の姿が、他の人々との関わりと事件の中で淡々と描かれるだけで、笑えるシーンもほとんどないのだが、10分の休憩2回を挟んでの3時間52分が全く長くない。ほとんどのシーンに出ている田中の力量と緊張感も見事だが、その看病を病身で受け止める藤谷の存在感も素晴らしく、他の役者陣も実に丁寧に役割を演じて、本当に観てよかったと思わせる芝居だった。

  • 満足度★★★

    そこまでいい?
    結構ベタボメのコメントが多いけど、俺としてはそれほど楽しめなかった。寝不足のせいもあったと思うけど。長すぎたし… 俳優陣はすごかった。

  • 満足度★★★★★

    評判に違わぬ良作。
    演出の長塚が掲げている、戦中に書かれた戯曲を現代の作品として舞台に立ち上げるというテーマは、概ね達成できていると思いました。各役者が演じる対象を自身に引き付けて創り込んでいるなど、俳優・スタッフが一丸となって良い公演にしようという意気込みが伝わってきています。田中哲司の演技に物足りなさを感じるところはありますが、あまり高いレベルを求めすぎるのはそれこそないものねだりになってしまうのかと・・・。

  • 満足度★★★★

    20110211
    (^・ェ・^) 四時間飽きない

  • みた
    解釈に迷った。
    感動的な夫婦の話といってしまうのは違和感がある。
    主人公の五郎に、感情移入できなかった。

    ネタバレBOX


    医者には延命をすがってみたり暴言を吐いたりして、妻への思いをぶつける一方で、友人とその妻の最後のひとときと、自分と友人とのひとときを同列に並べて我を通そうとする。妻を思いやる言葉は、実際には我が身かわいさから出ている。
    妻と、おばさんや子供たちとのやりとりを制限しては、それを愛情とすり替えている。
    試しかけた民間療法にしても同じこと。

    妻は、彼の絵を愛し、自分亡き後の彼の人生を案じてはいたが、行き過ぎた介護からは逃避したかったのではないかと感じた。
  • 浮標、やはりいいよなぁ
    三好十郎作「浮標」は以前、他の演出家作品で観たことがあり、あまりにも好きすぎて今回も迷いながら長塚演出を観た。「生死」に寄り添う脚本であるが、長塚演出は「生きる」を強調した演出に思われた。スタイリッシュな演出に今回は泣かないで済みそうと思いながらやはり後半堪らず涙。なんでこう人間臭い良い人ばかり出てくるのでしょう。

  • 満足度★★★★★

    な、なんだこれは…!
    吉祥寺シアターの、二階バルコニー席。
    役者の顔、動きが十分に見える位置だったので、心の底の方から
    絞り出すような台詞が、衝動的で動物の様な動きが、
    本当に時々弾丸のように私の感情を直撃してきて…
    とにかく、ラスト周辺ではタイトルの様な言葉しかいえない。

    ☆5個じゃ足りないぞ、これは!!! 
    迷っている人は以下で『浮標』の原文を読んで、ひっかかる台詞が
    一つでもあるのなら絶対に行くべき。 後悔は絶対にしない作品。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/001311/files/49776_36893.html

    ネタバレBOX

    三好十郎は去年『峯の雪』を観て、うわ、何て嘘が無くて美しいんだ、と
    本当にショックを受けて。 それから作品に当たり続けました。

    とにかく氏の作品は「嘘が無くて」「身体の奥底から絞り、引き出すような」
    「創り物っぽくない、活きた」台詞で溢れていて。
    もう亡くなって50余年経ちますが、恐ろしく古びない作品ばかりですね。

    『浮標』は去年の段階で既にホンは読んでいました。

    ひたすらに、生々しく、「創り物」でなく本当の人間だったら
    いいかねないような台詞の応酬で(こんなに芸術的ではないけど)、
    特に八方ふさがりで、自暴自棄に、狂気すら孕んでいく五郎のさまに
    深く共感し、何度泣いたか分からない。

    傑作であり、三好十郎の中ではもの凄く好きな作品です。

    パンフレットにもあるように、自分の拠って立ってきたプロレタリア思想との
    決別、愛妻の死、既に倒壊し、滅びゆく日本、といった極限状況のさ中で
    1939年に構想され、五週間程の執筆期間の後、1940年の3~4月に
    築地小劇場で丸山定夫等によって初演されています。

    この作品について、直後に出版された作品集『浮標』(1940年)の
    「あとがき」で三好自身は以下のように述べています(以下、引用は
    断らない限り片島紀男『三好十郎傳』(五月書房)に拠る)。

    「いずれにしても私にとって劇作の仕事は、自己の見聞の「報告」で
    あるよりも、その報告を含めた上での、自分の生きる「場」である(中略)」
    「ほんとの戯曲らしいものが書けるならばこれからだという気がしきりにする」

    では、そんな自信作に対し、初演の様子はどうだったか。

    「(終演の後)しかし、客席はシーンと静まりかえっている。ア、やっぱり
    駄目だったのかと思った途端、ずっしり幕がおりきって、一瞬、二瞬、三瞬、
    沈黙しきっていた百名足らずの観客が、一時に爆発したように拍手-
    それがなりやまない」
    「私(演出の八田元夫)が、監事室を飛びだしても、まだなりやまない。
    まっしぐらに楽屋に飛込んで行った。丸山が眼に涙を浮かべながら、
    両手で私の右手をおれるばかりぎゅうっと握りしめた」

    まるで眼に浮かぶようですよ。 その時の様子が、今でも。

    戦前日本には「七生報国」という言葉がありました。
    文字通り、七回生まれ変わってもお国の為に尽くそう、という
    そんな意味の言葉ですが、三好は劇中こんな台詞を五郎に
    吐かせています。

    「人間死んじまえば、それっきりだ。それでいいんだ。全部真暗になるんだ。そこには誰も居やしない。真暗な淵だ。誰かを愛そうと思っても、
    そんな者は居ない。ベタ一面に暗いだけだ。ただ一面に霊魂……かな? 
    とにかく霧の様な、なんかボヤーツとした雰囲気が立ちこめているだけで、
    そん中から誰か好きな人間を捜そうと思っても見付かりやしないよ」

    「入りて吾が寝む、此の戸開かせ(筆者注:五郎が美緒に読み聞かせている
    万葉集の一節)なんて事は無くなる。人間、死んだらおしまいだ」

    「生きている事が一切だ。生きている事を大事にしなきゃいかん。
    生きている事がアルファでオメガだ。神なんか居ないよ! 居るもんか! 
    神様なんてものはな、生きている此の世を粗末にした人間の考える事だ。
    この現世を無駄に半チクに生きてもいい口実にしようと思って誰かが
    考え出したもんだ。現在生きて生きて生き抜いた者には神なんか要らない」

    戦時はまさに「死ぬこと」、国家の為に「生を捧げること」が徹底的に
    叩き込まれ、それが一般通念としてあった時代でした。

    自分が拠って立つものの為に死ねば、次の世も生きられる。
    別に戦前日本に限らず、現在の、内戦状態、戦争状態にある場所なら
    当たり前のように生きている思想です。

    その、一見希望があるも、実は捨てっ鉢な思想を、自身の経験から
    三好は嘘だ、と見抜いていた。 だからこそ、嘘におんぶにだっこで
    乗っかるという、不誠実なことなど出来ず、逆にキツいパンチを
    お見舞いしてしまったのでしょう。

    とにかく、当時の日本の情勢に真っ向から反逆するような台詞であり、
    私はただただよく上演出来たな、と驚くのです。
    そして、その勇気と一本気が凄く、わたしには励みになる。

    『浮標』に触れると、自分真剣に生きていないな、と恥じ入り、背筋が正されるような思いになります。そして、自分が死んでも、その後に必ず続くものが
    ある、と優しく言われているような気がして希望が持ててもきます。
    全てが確信と気概に満ち溢れているんですよね。


    短いですが、役者の話に。

    とにかく田中哲司さんが凄かった。凄過ぎだった。

    その凄まじさの一端は劇場販売パンフレットにもあるように
    「24時間『浮標』の事を考え続けた結果、みるみるうちに痩せていった」
    「完全に五郎が憑依していた」

    と壮絶の一言ですが、結果、恐ろしく精悍で、万事に熱く、熱過ぎて
    狂気をもはらんでしまう、そんな「芸術家五郎」の姿をそこにみるようでした。

    特に、一幕目、尾崎に向かってどうしようもならなくなったら美緒を「殺す」と
    言い放った時と、二幕目の、追い詰められてしまい、何処を見ているのか分からない、

    そんな時の五郎演じる哲司さんは、本当に狂っているのでは?と
    思ってしまう程で。 役ではない、真正の「五郎」をそこに観る想いでした。

    藤谷美紀さんの美緒も美しかった。 台詞の一つ一つが「人間」でした。
    自分の奥から絞り出すような台詞を聞き逃すまいと、集中し過ぎて
    少々疲れもしましたがそれも、とても豊かな時間。
    照明の中、じっと目をつぶったままの姿を、不思議と清らかに感じました。

    なんというのか…「生」が「性」につながり、そして「聖」へと至る、
    そんなことすら考えてしまう程。 とにかく、色んな事を4時間の中で
    感じ、考え、そして心打たれて涙しました。

    そんな体験、なかなか出来ないですよ。


    私はよく評論でいう、「役者の身体性」という言葉が嫌いです。
    往々にして身体性とやらに拠りかかり、独りよがりの、全く役を
    映し出せていない劇が多過ぎるからです。
    そんな状況の免罪符になっているんですよ、この言葉は。

    でも、この『浮標』を観た後なら、その言葉も少しは信じられる気もします。
    それだけ、役者一人一人が、それぞれの役と真剣に格闘し、その真意を
    必死に汲み取ろうとした結果が、舞台の上に表れていたからです。

    なりふり構わない、その姿を、人間の姿を私は感動的だと思ったんです。

    不毛の砂の上に、ただ生きるは人間。現世もそれと同じ。

    ラストシーンで、そうした砂の中をただ一人、「生命」を象徴する
    万葉集を抱えながら佇む、哲司さん、というより五郎。

    それを左右から静かに屹立して見つめる役者達の姿。
    すごく美しい光景でした。

    一言、こんな素晴らしい舞台を観せて、ならぬ魅せてくれて本当に
    ありがとうございました。 役者、演出、全ての関わった人にただただ感謝。
  • 観劇。
    台詞をこれほど美しいものと感じたのは初めてかもしれない。耳に入ってくる台詞ひとつひとつに生命のエネルギーが宿っている。前日に観た「アンナ・カレーニナ」では音楽に震えたが、今日は三好十郎の台詞に震えた。俺泣きすぎだよ本当に。でもただただ泣くしかできないんだ。

    二村周作さんの美術と、小川幾雄さんの照明が秀逸だった。砂浜の上、ひとりの人影が左右にふたつ映し出される。まるで海の沖合で浮標が揺れるようにゆらゆらと、人が生と死との狭間を漂うように…。その境目は僅かな紙一重であるというのに、ひっくり返った瞬間にすべてが変わってしまうのだ。

    そして晒しの舞台上で負けなかった役者の根気に、何よりの拍手を。田中哲司に藤谷美紀、大森南朋の迫ってこんばかりの演技が身体に染み渡る。安藤聖は演技力こそ伸びしろがあるものの美しい声。しかし1日2ステとか馬鹿じゃないのかと本気で思う。観る方ですら憔悴する芝居だというのに。

    断っておく必要があるのは、激しい集中力を使うことで体力的に憔悴する芝居でありつつも、精神的には生命の活力がみなぎり溢れた芝居ということだ。生きて生きて生き抜くパワーが伝わってくる。倍の値段払っても全く惜しくない芝居に出会えるなんて、そうあることじゃない。素晴らしかった。

    最後に、パンフレットからの知識の引用となるが、一言書いておこう。幕末の国難を乗りきった一度目の奇跡、第二次大戦敗戦から復興を遂げた二度目の奇跡を我々日本人は経た。そして今、三度目の奇跡を果たすべく、未曾有の社会状況に立ち向かっていかねばならないという。まさに時代の過渡期にある。

    今こそ我々には生きることを強く願う意思が必要だ。執拗なまでに生の讃歌を歌い上げるのだ。戦渦にあった三好十郎が書いた台詞を、「生きて生きて生き抜け」という言葉を、後世の日本に引き継がんためにも。

  • 満足度★★★★★

    田中哲司さん凄い
    ここでの高評価を見て行ってきました。
    かなり久しぶりに、見応えのある舞台だった。
    ホント、観れて良かった

    休憩2回を含む計4時間の大作。
    だが、終わってみればそこまで長かった感覚は薄く
    特に3幕はあっという間だった。

    いい役者さんが揃ってるが
    今回はその中でも主役の田中哲司さんが凄まじかった!
    こういうのを「内に秘めた狂気」と言うのかな。
    後半の演技には、本当に鳥肌がたった。

    長塚さんの演出も派手ではないが
    両脇で座ってみている役者等とても効果的なものだった。

  • 満足度★★★★★

    愛することと、生きること
    演劇を愛している=人間を愛している。
    つまりは、生きるということに、まっすぐに向き合っていくこと。
    長塚圭史氏は、そういう表現者なんだな。

    愛していると抱きしめておきながら、自分の力で生きろと突き放されたような・・・、
    三好十郎はそんな作家だ。
    そして、それは媚薬のようであり、劇薬のようであり、癖になる。

    開幕の口上で、長塚氏は70年前の戯曲を上演するにあたり、「現代」という言葉を強調した。
    現代的というのは、演出も俳優も自分の「現代(いま)」を背負い、戯曲と対峙し、観客に届けることだと思う。

    藤谷さん、すばらしかった。
    田中さん、正直言って期待はしていなかった。けれど、二幕以降、どんどん引力を増し、最後には人相まで変わっていた。戯曲とともに生きていた。

    一部、俳優さんが「現実」を背負うという、「作業」段階であがいているのが見えて惜しかったけど、まだ上演中。ますます深まっていくと思う。
    私は休憩2回で4時間ぐらいの作品が、一番しっくりきて好きなので、上演時間にも満足。
    「演劇には力がある」を実感できる舞台。多くの人に観てほしいと思う。

  • 満足度★★★★

    芸術作品
    会社をバックれて、昼の部を観賞。
    平日の昼間だというのに、満席でした。

    そこに見えるのは、砂。
    描かれるのは人間の生きる力。
    ちょっと神秘的ですらありました。
    (春琴に似た舞台設定)

    時代背景、社会事情が異なるとはいえ、
    現代と似た問題を浮かび上がらせ、
    その鳴門のような渦に翻弄されつつも、
    慟哭しながらも、生きようとする人間が
    そこにいることを思い知らされました。

    ただ、、4時間はキツかったですぅ。。

  • 満足度★★★★★

    私の宝物になりました
    KAATで観ましたが、もう一回。それでもまた観たいと思う作品です。
    すばらしく完成された70年前の戯曲を長塚さんが現代に蘇らせ、それに応えて、さらにすばらしいものに出来るスタッフや役者さんたちの力って凄いです。それを心に刻むことが出来た私は幸せです。
    とくに二村周作さんの仕事(美術。それは全然主張していないんですよ)は一生忘れないと思います。と、そこにいる五郎さんの背中と万葉集からこぼれ落ちる砂。

  • 満足度★★★★★

    砂浜の残像
    「戦争」「生きること」。昭和15年の作品。現代においても何も変わらないそれらの主題。人間だから、日本人だから、「愛」があるから。「幸せ」なのです。

    ネタバレBOX

    舞台装置がそれはそれは素敵です。場面に登場しない役者の動きや配置にも演出がなされていて、ラストのアンサンブルは鳥肌立ちました。「帰れソレントへ」の美しさも心に沁みました。田中哲司さんの膨大なセリフに圧巻されたというか、久我五郎降臨でしたね。小母さん役の佐藤直子さんが全体の軸を引っ張っていましたよね。

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