浮標(ブイ) 公演情報 葛河思潮社「浮標(ブイ)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    な、なんだこれは…!
    吉祥寺シアターの、二階バルコニー席。
    役者の顔、動きが十分に見える位置だったので、心の底の方から
    絞り出すような台詞が、衝動的で動物の様な動きが、
    本当に時々弾丸のように私の感情を直撃してきて…
    とにかく、ラスト周辺ではタイトルの様な言葉しかいえない。

    ☆5個じゃ足りないぞ、これは!!! 
    迷っている人は以下で『浮標』の原文を読んで、ひっかかる台詞が
    一つでもあるのなら絶対に行くべき。 後悔は絶対にしない作品。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/001311/files/49776_36893.html

    ネタバレBOX

    三好十郎は去年『峯の雪』を観て、うわ、何て嘘が無くて美しいんだ、と
    本当にショックを受けて。 それから作品に当たり続けました。

    とにかく氏の作品は「嘘が無くて」「身体の奥底から絞り、引き出すような」
    「創り物っぽくない、活きた」台詞で溢れていて。
    もう亡くなって50余年経ちますが、恐ろしく古びない作品ばかりですね。

    『浮標』は去年の段階で既にホンは読んでいました。

    ひたすらに、生々しく、「創り物」でなく本当の人間だったら
    いいかねないような台詞の応酬で(こんなに芸術的ではないけど)、
    特に八方ふさがりで、自暴自棄に、狂気すら孕んでいく五郎のさまに
    深く共感し、何度泣いたか分からない。

    傑作であり、三好十郎の中ではもの凄く好きな作品です。

    パンフレットにもあるように、自分の拠って立ってきたプロレタリア思想との
    決別、愛妻の死、既に倒壊し、滅びゆく日本、といった極限状況のさ中で
    1939年に構想され、五週間程の執筆期間の後、1940年の3~4月に
    築地小劇場で丸山定夫等によって初演されています。

    この作品について、直後に出版された作品集『浮標』(1940年)の
    「あとがき」で三好自身は以下のように述べています(以下、引用は
    断らない限り片島紀男『三好十郎傳』(五月書房)に拠る)。

    「いずれにしても私にとって劇作の仕事は、自己の見聞の「報告」で
    あるよりも、その報告を含めた上での、自分の生きる「場」である(中略)」
    「ほんとの戯曲らしいものが書けるならばこれからだという気がしきりにする」

    では、そんな自信作に対し、初演の様子はどうだったか。

    「(終演の後)しかし、客席はシーンと静まりかえっている。ア、やっぱり
    駄目だったのかと思った途端、ずっしり幕がおりきって、一瞬、二瞬、三瞬、
    沈黙しきっていた百名足らずの観客が、一時に爆発したように拍手-
    それがなりやまない」
    「私(演出の八田元夫)が、監事室を飛びだしても、まだなりやまない。
    まっしぐらに楽屋に飛込んで行った。丸山が眼に涙を浮かべながら、
    両手で私の右手をおれるばかりぎゅうっと握りしめた」

    まるで眼に浮かぶようですよ。 その時の様子が、今でも。

    戦前日本には「七生報国」という言葉がありました。
    文字通り、七回生まれ変わってもお国の為に尽くそう、という
    そんな意味の言葉ですが、三好は劇中こんな台詞を五郎に
    吐かせています。

    「人間死んじまえば、それっきりだ。それでいいんだ。全部真暗になるんだ。そこには誰も居やしない。真暗な淵だ。誰かを愛そうと思っても、
    そんな者は居ない。ベタ一面に暗いだけだ。ただ一面に霊魂……かな? 
    とにかく霧の様な、なんかボヤーツとした雰囲気が立ちこめているだけで、
    そん中から誰か好きな人間を捜そうと思っても見付かりやしないよ」

    「入りて吾が寝む、此の戸開かせ(筆者注:五郎が美緒に読み聞かせている
    万葉集の一節)なんて事は無くなる。人間、死んだらおしまいだ」

    「生きている事が一切だ。生きている事を大事にしなきゃいかん。
    生きている事がアルファでオメガだ。神なんか居ないよ! 居るもんか! 
    神様なんてものはな、生きている此の世を粗末にした人間の考える事だ。
    この現世を無駄に半チクに生きてもいい口実にしようと思って誰かが
    考え出したもんだ。現在生きて生きて生き抜いた者には神なんか要らない」

    戦時はまさに「死ぬこと」、国家の為に「生を捧げること」が徹底的に
    叩き込まれ、それが一般通念としてあった時代でした。

    自分が拠って立つものの為に死ねば、次の世も生きられる。
    別に戦前日本に限らず、現在の、内戦状態、戦争状態にある場所なら
    当たり前のように生きている思想です。

    その、一見希望があるも、実は捨てっ鉢な思想を、自身の経験から
    三好は嘘だ、と見抜いていた。 だからこそ、嘘におんぶにだっこで
    乗っかるという、不誠実なことなど出来ず、逆にキツいパンチを
    お見舞いしてしまったのでしょう。

    とにかく、当時の日本の情勢に真っ向から反逆するような台詞であり、
    私はただただよく上演出来たな、と驚くのです。
    そして、その勇気と一本気が凄く、わたしには励みになる。

    『浮標』に触れると、自分真剣に生きていないな、と恥じ入り、背筋が正されるような思いになります。そして、自分が死んでも、その後に必ず続くものが
    ある、と優しく言われているような気がして希望が持ててもきます。
    全てが確信と気概に満ち溢れているんですよね。


    短いですが、役者の話に。

    とにかく田中哲司さんが凄かった。凄過ぎだった。

    その凄まじさの一端は劇場販売パンフレットにもあるように
    「24時間『浮標』の事を考え続けた結果、みるみるうちに痩せていった」
    「完全に五郎が憑依していた」

    と壮絶の一言ですが、結果、恐ろしく精悍で、万事に熱く、熱過ぎて
    狂気をもはらんでしまう、そんな「芸術家五郎」の姿をそこにみるようでした。

    特に、一幕目、尾崎に向かってどうしようもならなくなったら美緒を「殺す」と
    言い放った時と、二幕目の、追い詰められてしまい、何処を見ているのか分からない、

    そんな時の五郎演じる哲司さんは、本当に狂っているのでは?と
    思ってしまう程で。 役ではない、真正の「五郎」をそこに観る想いでした。

    藤谷美紀さんの美緒も美しかった。 台詞の一つ一つが「人間」でした。
    自分の奥から絞り出すような台詞を聞き逃すまいと、集中し過ぎて
    少々疲れもしましたがそれも、とても豊かな時間。
    照明の中、じっと目をつぶったままの姿を、不思議と清らかに感じました。

    なんというのか…「生」が「性」につながり、そして「聖」へと至る、
    そんなことすら考えてしまう程。 とにかく、色んな事を4時間の中で
    感じ、考え、そして心打たれて涙しました。

    そんな体験、なかなか出来ないですよ。


    私はよく評論でいう、「役者の身体性」という言葉が嫌いです。
    往々にして身体性とやらに拠りかかり、独りよがりの、全く役を
    映し出せていない劇が多過ぎるからです。
    そんな状況の免罪符になっているんですよ、この言葉は。

    でも、この『浮標』を観た後なら、その言葉も少しは信じられる気もします。
    それだけ、役者一人一人が、それぞれの役と真剣に格闘し、その真意を
    必死に汲み取ろうとした結果が、舞台の上に表れていたからです。

    なりふり構わない、その姿を、人間の姿を私は感動的だと思ったんです。

    不毛の砂の上に、ただ生きるは人間。現世もそれと同じ。

    ラストシーンで、そうした砂の中をただ一人、「生命」を象徴する
    万葉集を抱えながら佇む、哲司さん、というより五郎。

    それを左右から静かに屹立して見つめる役者達の姿。
    すごく美しい光景でした。

    一言、こんな素晴らしい舞台を観せて、ならぬ魅せてくれて本当に
    ありがとうございました。 役者、演出、全ての関わった人にただただ感謝。

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    2011/02/08 20:20

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