ロドリゴ・ガルシア『ヴァーサス』 公演情報 ロドリゴ・ガルシア『ヴァーサス』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.8
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  • 満足度★★★

    「過剰」ではなかったなあ。
    暴力を振るったり、食べ物を撒き散らすといった扱いが難しいイメージを、芸術作品としてきちんと成立させる演出の手腕は高いと思いました。一方、これらのイメージそのものは決して「過剰」と言えないのが、現代の日本。「資本主義病」が世界で最も進行している国に、わたしたちは住んでいるのかもしれないですね・・・。

  • 満足度★★★

    舞台に挑発され続けたようだが
    そうとは感じなかった。

    生理的にキツい舞台ではないかと思っていのだが、そうでもなかった。
    それは、こちらが、今の暴力的な状況に慣れて、感覚が麻痺していたのか、あるいは、演出がそこまで達していなかったのか、またはそもそも暴力を演出しているように見せかけて、それを感じさせないような演出だったのかはわからない。
    しかし、どのシークエンス、エピソードも一皮剥くと、ざらざらしたような手触りや牙があったような印象がある。

    そして、それらはきちんと計算され、エンターテイメント的に仕上がっていたと言ってもいいだろう。
    まあ、誰のためのエンターテイメントなのかはわからないが(笑)。

    ネタバレBOX

    とにかく全般にわたって印象的なのは、繰り返し本への冒涜が行われ続けていたこと(正直これが一番イヤだった)。
    つまり、言葉の否定かと思ったのだが、そうではなく言葉ありき、言葉が舞台自体を牽引していたと言っていいだろう。
    本は、過去の知識(あるいは意識)の否定だったのかもしれない。
    全般的に台詞が面白いと思った。

    一見無秩序のように見えるが、「観客」を意識した構成と作り込みがなされていて、まったく飽きさせることはなかった。
    先行していたイメージでは「暴力」とか「カオス」がふんだんにあるのではないかと思っていたのだが、そうでもなかったということだ。

    もちろん、計算されていたのだと思うが、「面白いと思うモノ」を次々と繰り出してきた感はある。
    だから、ポンポンと進むそのリズムに乗ってしまうと、興味の階段を舞台の中の出来事と一緒に登っていく感じがする。
    これは心地よい。

    ドラム+ベースのバンド演奏やどこかエキゾチックなアカペラ独唱、伝統的な弦楽器などの音楽がそれをうまく盛り上げていた。暴力のときだけに鳴る弦楽器など、とても慎重で効果的な使われ方をしていた。
    これだけで、この舞台がいかに作り込まれているか、ということがうかがえるのだ。

    映像も面白く、特に、2棟の高層ビルに近づく飛行機がその間をすり抜けたり、戦車の前に立ちはだかる男と一緒に戦車の乗員が踊り出すなどといった一連のアニメのアイロニーやシニカルさには、どきどきしながら思わず笑ってしまった。本来は笑えないものなのだが。

    また、女性に対して息をふさいだり、水を無理矢理飲ませたり、テニスラケットで身体を捻ったりなどの直接的な暴力行為は、多少の不快感はあるものの、どこか予定調和的な、というか「お楽しみ」的な雰囲気が漂っていたように感じた。
    ただし、男性の顔を本で覆い、テープでグルグル巻きにするシークエンスだけは、恐怖した。なぜならば、長髪のその男性の髪の毛も大量にテープが貼られていたからだ。すぐにまた登場すことを考えると、テープを外すときに…、おお怖っ。それは演出上の意図ではないだろうけど(笑)。

    何度か裸になるシーンがあった。それはどこか滑稽であったりするのだが、それほどインパクトもなく、これは1回で十分ではないかと思った。

    生理的に受け付けないところやイヤになってしまうところはほとんどなく、それはつまり、暴力的な今にいることで、麻痺していることなのかもしれない。
    あるいは、単にその印象が広い空間に薄められたのかもしれない。
    さらに考えると、暴力的な皮を被ってみせているだけで、それへの恐怖はあまり感じないようにしていたのかもしれない。
    ただし、もっと狭い閉ざされた空間で行われたらずいぶん印象も変わったかもしれないと思う。
    もっとも、暴力だって何だって、続くと麻痺するものなのだ。

    VS(ヴァーサス)は、文字どおり「対」(対抗・敵対)。
    観客VS舞台で対峙し、物語では科学VS精神、新VS旧など「VS」な関係が提示されていた。それには答えはなく、文字どおり提示されていただけで、ジャッジは観客にゆだねられていたのだろう。というか、ジャッジする必要はまったくないのだが。
    観客はいろいろな手法で試され、挑発されていたのだろう。しかし、その挑発は、正直ピンとこなかった。意識の違い(あるいは当方の意識の低さ)に起因しているのかもしれないし、考え方が根本的に違っているのかもしれない。


    劇中で打ち上げたテニスボールが、すぽっと手元に入ってきた。とっさに投げ返そうと思い、そのタイミングをうかがい、右手にテニスボールを握りしめていた。しかし、なんだか構築された世界を破壊してしまいそうなので、投げ入れることができず、そっとカバンにしまった(上映中に落としたりしたら迷惑がかかるので)。そして、そのまま持って帰ってしまった。帰りながらやっぱり投げ入れるべきだったなあと反省しきり。
    HAEDのテニスボールだった。
  • 満足度★★★

    Versusの意味
    Versus(前置詞)

    1. (訴訟・競技等で)…対、…に対して

    2. …に対して、比較して

    観終わった後、この作品はもしかしたら作者ロドリゴ・ガルシア自身の
    総決算的な意味あいを持つものなのではないか、とふと思いました。
    事前情報で考えていたよりずっと詩的、かつ私的で、その背後に
    彼、ロドリゴ・ガルシアという人間の一端が見え隠れするような気がした。

    ネタバレBOX

    社会批判、風刺に満ちた挑発的な過去作のタイトルの羅列から
    今作もその系統かと思いきや、社会批判色は後退気味で、むしろ
    相当に自分と他人とを深く見つめた作品のように思えました。

    「対"自身"」(I vs I)、「対"他人"」(I vs other)…

    衝動的で暴力的、どこか人間の当初とオーバーラップするような
    原始的な振る舞いを見せる登場人物達の口、それを追うように
    頻繁にバックに映写されるモノローグを通じて、作者自身、ロドリゴ
    自身の肉声が迫ってくる。

    その多くは、端的に言うと、
    「愛は肉体的関係に終始するだけでなく、それだけの方が他の
    何よりも上手くいく」
    「芸術なんて、退屈で徒労に満ちた、暇つぶしにもならないもの」

    といった感じの、どこか諦めや軽い絶望を思わせる、叫びというより
    ぼそぼそとした囁きのよう。 その言葉自身に苛立つかのように、
    役者達はお互いに意味の無い暴力を振い合い、痙攣し、暴れて
    本を引き裂き、投げ捨てる。 

    まるで、書物の知恵がクソのようなもので、暴力、攻撃が人間の
    本性であることをみせびらかすように。

    自分にどこか苛立ち、他人にも苛立ちを感じている。
    海を越えても、同じ感覚を共有する人間がいることを発見し、
    当たり前と言ってはそうなのですが、驚きを隠せなかったのです。

    とどのつまり、ロドリゴ・ガルシアという人間は、どこか純粋で
    傷つきやすく、芸術肌でありながら現実をよく知っている。
    そんな社会的な人の一人なのでしょう。 だから、彼の、延々と
    続くモノローグ、特に後半のそれは私の胸に微かに疵をつけていくような、
    そんな気がしました。

    「そんなのは嘘だ。みんな俺をなぶり殺しにしたいだけなんだ」

    その一言をもって、この『ヴァーサス』は幕を閉じます。

    だけど、そういうことを言う人間が、実はまだほんの少しの希望を
    誰よりも隠し持っていることはよくあることです。
    本当に諦念に満ちた人間はそういうことは言わないし、そもそも言えない。
    そこに、私は作者の「芯」、「真摯さ」をはっきりと感じ取りました。

    ただ、個人的には社会風刺色の強いロドリゴ・ガルシアの作品も
    大いに気になるところでありますが。。 
  • 満足度★★

    意外にシリアス
    挑発的な宣伝文句からどれだけぶっ飛んだ作品なのかと期待していたのですが、想像していたよりもまとまりのある作品でした。テキストの比重が高く(しかもモノローグや字幕ばかり)、翻訳を通じてしかそのテキストに触れられないのがもどかしく感じました。

    冒頭は世界各国でピザを食べる子供を見たという他愛のないとぼけた話(グローバリゼーションや浪費社会の皮肉だったのでしょうが、話しっぷりにユーモアがありました)から始まるのですが、孤独や愛を音楽や映像を伴って暴力的に描き、痛々しいシーンが多かったです。体を拘束したり、無理矢理水を飲ませたり、全裸になったりと体を張った演技が壮絶でした。

    本や水、牛乳、パスタの散乱する光景は舞台空間が広すぎたのか、あまりインパクトを感じませんでした。役者は出番でないときはステージ両袖に待機していて、タバコを吸ったりしていて、役を演じているのではなく役者本人として存在していることを感じさせる演出になっていて、いっそう痛々しさが引き立っていました。

    今回の作品は残念ながら心を動かされるところがあまりありませんでしたが、当日パンフに書いてあった、『自分の墓穴を掘るための鋤をイケアで買ったよ』や『ユーロディズニーで私の遺灰を散骨する』等の過去の作品タイトルが興味深く、旧作もぜひ日本でも上演して欲しく思いました。

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