満足度★★★★★
即興の意味
なんとなくわからないままでいた『即興』でやることの意味が
クリアになったのでとても発見的な体験だった。
切実さを排除しようとしているように見えて、実は岡田さんは
誰より、演劇の切実さを追っている。
叫んだり飛んだり走ったりするだけが切実なんじゃない。
いかにそれを想起させるか。
言葉、身体、から逃れられないわたしたち。を、こんなに強く感じる体験は他にない。
満足度★★★★★
○、△、□などで語る。
チェルフィッチュを見たのは今回が二度目。一度目は約5年前。「目的地」という今回同様、横浜を舞台にした話だった。その時はキャラクターがそれぞれ持つ身体的なクセ ― たとえば鼻をすすったり片手をプラプラさせたりする動作をエンドレスに続けながらぐだぐだの若者言葉を発話するスタイルに衝撃を受け、アウェーを感じ、戸惑いながらの観劇だったが身体的な面白さが少々目立ち過ぎてるように思えてしまったのも事実。今回、かつて抱いた印象は瞬く間に覆された。ある人の性格や特徴をフィードバックした動きをする点において変わりはないものの、発露の仕方が以前観た時よりずっとタイトに抽象化されていて、一語一句確かめるようにゆっくりしゃべる俳優の言葉やセルフポートレート的な身体を手掛かりに観客が各々、頭のなかで物語の背景や情感を肉づけしていく。それは○とだけ書かれた白紙に線を引いたり、色を塗ったり、△や□に変えてみたり、時には動かしてみたりするのを好き勝手にひとり遊びをしているよう。
描いたイメージは人によって異なるけれども、元を正せば同一であるため何かしら、幾何学的な形を保持したままであの人やこの場所が変化していくチェルフィッチュ独自の語りからは”私”の存在の危うさのようなものや直接触れ合っていなくとも”私たち”が反発しながら社会や時代という目には見えない枠組みで繋がり合っている共同体のようなイメージを抱いた。
物語は幸福な者と幸福の外側にいる者を淡々と描写する。彼らを幸福と不幸に分けたのは何か。その説明は特にない。両者は己の立ち位置を自覚し、反芻してこそ生きることを可能にする故。
満足度★★★★
よこはまたそがれ
「絵本のよう」という印象。「~です。」「~ます」調のナレーションと、時計だけが壁にかかった白い壁、動きの少ない登場人物が、まるで余白の多い絵本の眺めているような気にさせるのでしょう。
"不幸せな人"。これは人というより、"不幸せを司る神様"もしくは"不幸せ"そのものなのかな。部屋に静かに寝転がっているのは、幸せに見える夫婦が無意識にもっている"不幸せ"な部分なのかも。
「わたしたちは無傷な別人であるのか?」では、バス亭や公園で出会った他人とはもちろん、同僚とも、そして夫婦同士でさえも、表層的なコミュニケーションしかしていないように感じました(Sexシーン、夫が触るだけで、最後までいかないんですもんね。)。ひたすら"無傷な別人"でありつづけているようです。
この舞台で会話している場面って、マンションの玄関先での挨拶だけだと思いましたが(他はすべてナレーションで構成)、その口調が無機質で可笑しくて、思わず吹いちゃいました。
三人のみずきちゃん、三人ともタイプが違うので、一人の人間のなかのいろんな人格が、その都度あらわれてくるようで面白かったです。
それにしても「幸せ」っていったいなんでしょうね。舞台にでてくる夫婦は、一応幸せということにはなっているけれど、幸せに満ち溢れている顔はしてないですもん。「不幸せ」の後にしか「幸せ」はやってこない、でも"不幸せ"さんがまだ目覚めなていない。
タワーマンションに引っ越して、あの夫婦は、本当に幸せになれるのか、"不幸な人"は引越し先にもついていっちゃうのでしょうか。
満足度★★★★★
よぎる感覚と浸蝕されないない空気
「なんとなく満たされた感覚」の質量をもったあやふやさと、「ダークな感覚」の染み込みきれなさ、それぞれにぞくっとくるようなリアリティを感じました。
満足度★★★
題名がパワフル・・・すぎる?
この作品は、題名に力がありすぎるかもしれないです。
「われわれは無傷な別人であるのか?」…ここに全てが凝縮されている。
しかし、それにしても、せっかく美術館ででの公演なのに、その美術館が休館中というのは残念。