わたしたちは無傷な別人であるのか? 公演情報 チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人であるのか?」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    よぎる感覚と浸蝕されないない空気
    「なんとなく満たされた感覚」の質量をもったあやふやさと、「ダークな感覚」の染み込みきれなさ、それぞれにぞくっとくるようなリアリティを感じました。

    ネタバレBOX

    建設が予定されている高層マンションへの入居が決まっている夫婦、
    妻の職場か何かの友人がその家を訪れる・・・・。
    経済的には安定していて、
    生活にもゆとりがあって・・・・。

    でも、ゆとりがありながら
    見え隠れする不安・・・。
    実態はあっても実感がないなにかが
    彼らの生活感の周囲にアラベスクのような影を落とす感じ。

    たとえばふっとべき論で浮かび上がり語られるもの。
    あるいは電車のドア上に表示されるニュースからやってくるもの。
    画面の向こう側にある飾り物のように概念化された現実と
    すっと通り過ぎていく実態のないダークな気配が
    ほんの一瞬共振する感覚。

    過る感触の鮮明さが、
    直感的ともいえる切っ先で舞台上の空気に醸成されます。
    ふっとわき上がる「ベキ論」が妻を捕らえる強さや
    消失していくさま。
    選んだワインとチーズを持って
    電車に乗る友人が過ごす時間の色と
    その中に織り込まれるニュースなどの情報の感触や重さ。

    語りかける言葉が、背景や小道具のようにその場をつくり
    会話が、ダンサーの四肢の動きのように
    その時間を紡いでいく。
    舞台上の表現は密度をもった空気に染められて、
    やや下手側に掛けられた小さな時計が刻む時間にクリップされて
    観る側にやってくる。
    その広がりに観る側はひたすら取り込まれていくのです。

    黄昏の公園で男が食べるコンビニのパンと
    チーズとともに供されるバケットの対比。
    あるいは、翌朝夫婦が
    おいしいパンを買いに行き、さらに投票に行くというエピソード。
    夫婦やあるいは友人の視座から観たものが
    しなやかに一つの世界に組み込まれていくなかで
    そこにある水と油の境界線のような
    混じり合わない揺らぎの感覚の
    明らかに存在する不確かさに息を呑む。
    しかも、表現される一過性のような時間が
    観る側にはしっかり残る。

    この、観る側に残されたこの感覚を
    どのように表現すればよいのでしょうか。
    そこにあるものは、
    明らかにぞくっとくるような洗練に支えられているのですが、
    でも、愚直で原始的な泥つきの現実にも思える。
    きっと夫婦や友人もあからさまには認識していないであろう感覚の塊が、
    素の光を当てられてそのままに置かれているようにも感じる。
    そして、その感覚の先に
    「今」という時間の質感がゆっくりと浮かび上がってくるのです。

    終演後、しばらく呆然・・・。
    なんだか、すごいボリューム感に満たされていて・・・。

    当日会場で販売されていた劇団の次回公演チケット、
    むさぼるような気持ちで購入したことでした

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    2010/03/12 06:33

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