あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより- 公演情報 あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより-」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-8件 / 8件中
  • 満足度★★★★

    演劇について考えつづける三浦さん
    三浦さんの太田さんへの気持ちは、演劇への敬意と近いように思えて
    かしこまった、よい気持ちになれた。
    安部聡子さんの発声は、人格から切り離された感じがして
    ご神託を告げる巫女みたいな雰囲気で観るひとを吸着する。

  • 満足度★★

    モグリ脱出!!
    地点の試みにふれなければ
    重力/Note@制作部さんに
    モグリに認定されてしまうようなのでみにいった。
    ほっとした。これで
    重力/Note@制作部さんに
    モグリと思われずにすむ。
    年300本とかみるのやめて
    地点だけみようか。
    重力/Note@制作部さん的には
    「地点観る/観ない」が
    「モグリ/モグリでない」の基準らしいし。
    そっちのほうがお金かからないし。
    けどそうすると
    重力/Noteをみにいけなくなっちゃうな。

    作品の感想は
    テキストはいいとして
    なぜその発し方か、
    なぜその歩き方か
    というのがわからないし共感もできないしで
    退屈でした。

    「面白ければOKか?」
    と問われるならば
    『面白いだけがOKだ!!』
    と答えよう。

  • 満足度★★★★

    ウィキウィキ
    1月25日に続いて、30日にも見てきた。
    2回目の観劇のあと、受付で販売していた三浦基の著書「おもしろければOKか?現代演劇考」という本を買ってきて、ただいま熟読中。

    ネタバレBOX

    今回も実験性はあいかわらず。ひとりの作家の全テクストから抜粋したという20あまりのテクスト。その一つずつにおいて、ことなる実験をやっているようだ。過去に見たチェーホフ作品などは、一つの原作を使っているから、実験的とはいっても作品全体を一つのスタイルで捉えることができたが、今回は短いテクストをたくさん使っているので、実験もさまざまなスタイルが試されているということかもしれない。

    芝居と音楽を対比して、テクストを楽譜、役者を歌手、だと考えてみる。
    音楽では音の高低や長さ、強弱も楽譜に指定されているが、芝居のテクストにはそういうものはない。テクストの内容に忠実でさえあれば、声の高低や長さ、強弱は基本的には役者の判断にまかされている。
    ただ、音楽の場合も、楽譜に指定されているからといって、音程はともかく、音の長さや強弱は歌手によって微妙な差があるし、いっぽう芝居の場合も発声についての指定がテクストに書かれていないからといって、役者が好き勝手にしゃべってはいない。

    この作品は去年から今年にかけて4つの会場を移動しながら上演されてきたもので、今回がその最後になる。去年の7月に川崎で見たとき、プログラムに載っていた演出家、三浦基のあいさつ文によると、彼はせりふを発することと歌をうたうことに、それほど大きな違いはないかもしれない、と考えているようだ。つまり、楽譜にしたがって歌うにしても、脚本のせりふをしゃべるにしても、パフォーマーの体を通してしかテクストは音声化できないということだろう。

    そこで、テクストを音声化する装置としてパフォーマーを捉えたとき、その新しい装置を使ってどんなことができるのかを好奇心いっぱいに試しているのが、今回の公演といえるのではないだろうか。

    芝居でも音楽でも、複数の人間でやる場合は誰がどのパートを担当するかはたいがい決まっている。今回の上演においては、そういう枠組みもとっぱらわれているようだ。なにしろ使用されたテクストが断片的なので、一人一役というような配役はそもそも不可能だし。そしてテクストとパフォーマーの組み合わせのさまざまなパターンが試されている。

    通常の音響装置なら配置したあとはそのままじっとしているが、テクストを音声化する装置としての人間は、声を出しながらもいろんな動きをする。そしてその動きが今度は音声化に影響を与える。なにしろ人間だから動いていれば息も切れるし、疲れも出る。

    複数の装置によるテクスト音声化のいろんなパターンを試す。
    次に装置にさまざまな負荷をかけて、それが音声化に与える影響を調べる。
    以上の2点が、大雑把に言って、今回の実験の二本の柱ではなかっただろうか。







  • 満足度★★★★

    初めて観ました
    不思議な空間になりました。
    舞台の使い方とか上手いこと使っていた。スッポリと世界に入れました。

    踊ってる、もしくは動いてる(静も含め)って公演でした。

    他の公演も興味が湧きました。

  • 満足度★★★★

    これ、踊れるなあ。
    物語がない分、より音楽的になっていて、ある意味ではチェーホフよりも親しみやすいかも?

    ネタバレBOX

    昨年の新百合ヶ丘での「行程2」は、けっこう単調で平坦で閉じた感じを最後の安部聡子の長ゼリ一発で覆すような印象だったけど、今回はその切り札を前半で使って流れを作って楽しませるという、とても開かれた感じの、比べればはるかにエンターテイメントな作品になっていた。

    ただし、生音の響きが素晴らしかったから、スピーカーを通った音にすごく抵抗感があって。対比とか振り幅とか、意図はあるんだろうけど、自分的にはちょっと不協和音。すごく、惜しい
  • 201001281500
    観劇

  • 満足度★★★★★

    テクストをコラージュし「演劇」を見せる。それはドキドキする体験。
    前回同じ会場で観た『三人姉妹』は、台詞が音楽に聞こえた。それは抑制の効いた、ミニマル・ミュージックとも言えそうな室内音楽の調べだった。

    今回の音楽は、オーケストレーションされた現代音楽のようで、うねりと音の響き(特に役者の身体に響く発声)、ステレオ効果のような音の存在を楽しんだ。

    そして、「地点」はとても好きな劇団になった。

    ネタバレBOX

    テクストのコラージュ作品。
    そのテクストの中から聞こえてくる調べは、演劇(論)の演劇だった。

    太田氏のエッセーや理論の著作から取り出されたであろう、2つの印象的な長台詞では、発声についての確認と、「私という」身体(存在)の確認がなされる。
    発声の音の大小と内容の関係、身体(存在)の不確かさから確認へ、そうした作業を経て「私」の声(発声)と身体(存在)が確実ではないものの獲得された。

    獲得した声(発声)と身体は、私のものであり、自由に使用できる。
    その自由さは、太田氏の戯曲から取り出された、家族を巡る台詞で試される。

    移動、身体の動き、声の大小、発声場所の高低、生声、スピーカーからの発声など、さまざまな自由さ・カタチが披露される。

    さらに、もう1つの、地を這いながら発せられ、繰り返される台詞では、「演劇」の位置(どのような位置づけにあるのか)について述べられる。

    役者たちは、まるで演劇の、あるいは、演劇人としての自分の位置を探すようにコンクリートブロックを手にして舞台を徘徊する。

    舞台の左右さらに上方へ連なる傾斜に敷かれたコンクリートブロックは、さながら先人たち(演劇の先人たち)が築いてきた道程にも見える。
    その上、あるいは、その脇に、役者たちは自分の立ち位置を見つけ、ドシンとコンクリートブロックを置いてみる。

    ドシンと置かれたコンクリートブロックに役者たちは乗るが、そのサイズはわずかに40センチ×20センチ程度で、安定はしない。
    さらに役者たちは、自分の立ち位置を探し、重いコンクリートブロックを持ち彷徨う。
    コンクリートブロックという、自分(たち)の立ち位置は、思った以上に重いのだ。

    後ろのモニターでは、延々北緯と東経により、「地点」が示される。どうやらその地点は、劇団の活動拠点である京都界隈のどこかのようである。
    そこに役者たちや、劇団の立ち位置があるのか、ないのか、居場所があるのか、ないのか。モニターには、映像という「生」ではなく、リアル感がやや乏しい立ち位置が延々流されていく。

    ラスト近くでは、発声と台詞の関係を実験する。
    同じ台詞の速度やイントネーションを変えることでの変化、さらに役者や男女を変えての違いを見せる。

    太田氏のテクストを用いて、演劇を再認識するような、刺激的な舞台だったと思う。
    役者たちの鍛えられた(演劇的)身体性も楽しんだ。
    ・・・冒頭のニヤニヤ笑いは怖かったけど(笑)。

    途中、舞台の上段(キャットウォーク?)で見事に5人がハモリ(まさかコーラスになるとは思わなかったので、少し笑ってしまったが)、1人が下で台詞を言うシーンには、ちょっとだけ感動した。鳥肌モノで。
    その理由は自分でもわからない。
  • 満足度★★★★★

    観ました。
    地点の試み、これは見逃せませんよ。
    刺激が一杯です、太田省吾さんにもあらためて興味を抱かせてくれます。

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