あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより- 公演情報 地点「あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより-」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    テクストをコラージュし「演劇」を見せる。それはドキドキする体験。
    前回同じ会場で観た『三人姉妹』は、台詞が音楽に聞こえた。それは抑制の効いた、ミニマル・ミュージックとも言えそうな室内音楽の調べだった。

    今回の音楽は、オーケストレーションされた現代音楽のようで、うねりと音の響き(特に役者の身体に響く発声)、ステレオ効果のような音の存在を楽しんだ。

    そして、「地点」はとても好きな劇団になった。

    ネタバレBOX

    テクストのコラージュ作品。
    そのテクストの中から聞こえてくる調べは、演劇(論)の演劇だった。

    太田氏のエッセーや理論の著作から取り出されたであろう、2つの印象的な長台詞では、発声についての確認と、「私という」身体(存在)の確認がなされる。
    発声の音の大小と内容の関係、身体(存在)の不確かさから確認へ、そうした作業を経て「私」の声(発声)と身体(存在)が確実ではないものの獲得された。

    獲得した声(発声)と身体は、私のものであり、自由に使用できる。
    その自由さは、太田氏の戯曲から取り出された、家族を巡る台詞で試される。

    移動、身体の動き、声の大小、発声場所の高低、生声、スピーカーからの発声など、さまざまな自由さ・カタチが披露される。

    さらに、もう1つの、地を這いながら発せられ、繰り返される台詞では、「演劇」の位置(どのような位置づけにあるのか)について述べられる。

    役者たちは、まるで演劇の、あるいは、演劇人としての自分の位置を探すようにコンクリートブロックを手にして舞台を徘徊する。

    舞台の左右さらに上方へ連なる傾斜に敷かれたコンクリートブロックは、さながら先人たち(演劇の先人たち)が築いてきた道程にも見える。
    その上、あるいは、その脇に、役者たちは自分の立ち位置を見つけ、ドシンとコンクリートブロックを置いてみる。

    ドシンと置かれたコンクリートブロックに役者たちは乗るが、そのサイズはわずかに40センチ×20センチ程度で、安定はしない。
    さらに役者たちは、自分の立ち位置を探し、重いコンクリートブロックを持ち彷徨う。
    コンクリートブロックという、自分(たち)の立ち位置は、思った以上に重いのだ。

    後ろのモニターでは、延々北緯と東経により、「地点」が示される。どうやらその地点は、劇団の活動拠点である京都界隈のどこかのようである。
    そこに役者たちや、劇団の立ち位置があるのか、ないのか、居場所があるのか、ないのか。モニターには、映像という「生」ではなく、リアル感がやや乏しい立ち位置が延々流されていく。

    ラスト近くでは、発声と台詞の関係を実験する。
    同じ台詞の速度やイントネーションを変えることでの変化、さらに役者や男女を変えての違いを見せる。

    太田氏のテクストを用いて、演劇を再認識するような、刺激的な舞台だったと思う。
    役者たちの鍛えられた(演劇的)身体性も楽しんだ。
    ・・・冒頭のニヤニヤ笑いは怖かったけど(笑)。

    途中、舞台の上段(キャットウォーク?)で見事に5人がハモリ(まさかコーラスになるとは思わなかったので、少し笑ってしまったが)、1人が下で台詞を言うシーンには、ちょっとだけ感動した。鳥肌モノで。
    その理由は自分でもわからない。

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    2010/01/26 05:20

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