しあわせ学級崩壊(東京都)
作品タイトル「1001100000110101000100101」
満足度★★
爆音の音楽を流し続けながら俳優が時にマイクを握って台詞を発し、断片的な場面が連なり繰り返され、感情を乗せたポエトリーリーディングのような印象。事前に読んでいた説明文で、現代音楽のように層をなす構成の戯曲を、トランス感あるライブDJで上演するクラブ的なノリの演劇スタイルをイメージしていたので、最初はちょっと戸惑いました。オリジナルの音楽を使うスタイルには個性を感じますが、戯曲にはいろいろな人気劇団を想起させる台詞や展開や設定を感じます。やや内向的な雰囲気は好き嫌いが分かれそうです。震災を思わせる場面はモチーフが深刻なだけに、断片的な扱い方に違和感が残りました。
満足度★★
<なんでもない、特別な1日>をキーワードに、生まれてしまったこと=原罪をめぐり葛藤する少年少女たちの物語。
舞台上にはDJブース。上演中は、主宰の僻みひなた自らがプレイする大音響のトランスがほぼ休みなく流れ、セリフはハンドマイクを通して語られます。
その断片的でエモーショナルな独白を拾いつつ、観客は自ら物語を構築していくことになります。
東日本大震災<3.11>という現実と、丘の上の家に軟禁状態で暮らす姉妹とその母という架空の物語とが二重構造になっているところが一つの趣向。舞台中央に座り続ける、まだ生まれていない、拒絶された命(少年)の存在とも相まって、なんのために生まれたのか、なぜ生まれるのかという問いがここでは繰り返されます。
かたや陰惨な死、かたや無垢な生の輝きと、一見世界観は異なりますが、エモーショナルな台詞の反復、生/死を扱うテーマ(そして白い服を着た少女)は、マームとジプシーなどにも通ずるところがあると思いました。個人的にはむしろ、そういったものへのカウンターも期待したのですが……。「生」の脆弱性(やそれゆえの輝き)は、普遍的なテーマではありますが、そこだけに留まらない視点の提示が欲しいところです。
音楽はもちろん、発話のスタイルや演技も、独自の世界観、ビジョンの実現に向けて、しっかり積み上げた感がありました。
観客をうまく巻き込む力、工夫も感じます。ただ、それだけに、もう一回り外からの視線、閉じた世界に耽溺しない社会への通行路をもつくってもらいたかったという気がします。
満足度★★
開場中から舞台下手奥のDJブースで演奏があり、出演者は舞台上で柔軟運動や発声をしながら待機していました。舞台面上部には割れたコンクリートがむき出しになっており、廃墟とおぼしき空間の中央には木製のイス5脚とテーブルが1つ。上下(かみしも)に数本立っている細い木の柱に、凧糸のような白い紐がゆわえつけられ、数本の白い線になって舞台を横切っています。舞台面の上下(かみしも)には舞台と客席を遮る木の柵もあり、出演者は舞台上に閉じ込められているようでもありました。
物語があって出演者が役柄を演じるのですが、DJが流す大音量の音楽に合わせてマイクを通してセリフを言うことが多く、次々に楽曲を披露していく音楽イベントのようにも思えました。
当日パンフレットによると脚本・演出・演奏を手掛ける僻みひなたさんは24歳になられたそうで、「24年間のことと、その1日1日のことを思い出しながら、劇を作った」とのこと。登場人物は皆、作者の分身なのかしらと想像しながら拝見しました。
開場時刻が10分ほど遅れ、初日はあいにくの雨だったこともあり、細い階段から客席への誘導は少し手間取っていらっしゃいました。全席自由ですので劇場へはお早目にどうぞ。ロビーで本作の戯曲本を購入しました(800円)。
満足度★
フェティシズムを共有しないものには見ているのが辛い舞台だった。「おとうさま」のもと、ともに暮らす「姉妹たち」。ある種の新興宗教を思わせる設定で、どうやら性的虐待も行なわれていたことが匂わされる。「おとうさま」はすでに殺されていて舞台上には登場しないのだが、その代わりのようにして舞台上には作・演出・演奏の僻みひなたがいる。多くのセリフが音楽に乗せる形で発せられるこの作品において、舞台上で音楽を演奏する僻みの持つ「権力」は通常の演劇作品における作・演出のそれよりもさらに絶対的で、それは「おとうさま」の遺した呪いのようでもある。そこに批評的距離は感じられず、意識してやっているのであれば申し訳ないがただただ気持ち悪い。若い世代がこのような女性の描き方をよしとすることには大きな危機感を覚える。