舞台芸術まつり!2018春

しあわせ学級崩壊

しあわせ学級崩壊(東京都)

作品タイトル「1001100000110101000100101

平均合計点:16.8
川添史子
鈴木理映子
高野しのぶ
橘 康仁
山﨑健太

川添史子

満足度★★

爆音の音楽を流し続けながら俳優が時にマイクを握って台詞を発し、断片的な場面が連なり繰り返され、感情を乗せたポエトリーリーディングのような印象。事前に読んでいた説明文で、現代音楽のように層をなす構成の戯曲を、トランス感あるライブDJで上演するクラブ的なノリの演劇スタイルをイメージしていたので、最初はちょっと戸惑いました。オリジナルの音楽を使うスタイルには個性を感じますが、戯曲にはいろいろな人気劇団を想起させる台詞や展開や設定を感じます。やや内向的な雰囲気は好き嫌いが分かれそうです。震災を思わせる場面はモチーフが深刻なだけに、断片的な扱い方に違和感が残りました。

鈴木理映子

満足度★★

<なんでもない、特別な1日>をキーワードに、生まれてしまったこと=原罪をめぐり葛藤する少年少女たちの物語。
舞台上にはDJブース。上演中は、主宰の僻みひなた自らがプレイする大音響のトランスがほぼ休みなく流れ、セリフはハンドマイクを通して語られます。
その断片的でエモーショナルな独白を拾いつつ、観客は自ら物語を構築していくことになります。

東日本大震災<3.11>という現実と、丘の上の家に軟禁状態で暮らす姉妹とその母という架空の物語とが二重構造になっているところが一つの趣向。舞台中央に座り続ける、まだ生まれていない、拒絶された命(少年)の存在とも相まって、なんのために生まれたのか、なぜ生まれるのかという問いがここでは繰り返されます。

かたや陰惨な死、かたや無垢な生の輝きと、一見世界観は異なりますが、エモーショナルな台詞の反復、生/死を扱うテーマ(そして白い服を着た少女)は、マームとジプシーなどにも通ずるところがあると思いました。個人的にはむしろ、そういったものへのカウンターも期待したのですが……。「生」の脆弱性(やそれゆえの輝き)は、普遍的なテーマではありますが、そこだけに留まらない視点の提示が欲しいところです。

音楽はもちろん、発話のスタイルや演技も、独自の世界観、ビジョンの実現に向けて、しっかり積み上げた感がありました。
観客をうまく巻き込む力、工夫も感じます。ただ、それだけに、もう一回り外からの視線、閉じた世界に耽溺しない社会への通行路をもつくってもらいたかったという気がします。

ネタバレBOX

血のつながりも怪しい5人の少女。彼女らは「特別」であるために、毎日祈りを捧げ、外界と交わることなく暮らしていました。ところが、ある晩、父がいなくなったのを機に、次女と思われる一人が家を出ると言い始めます。父と娘たちの間には、性的なつながりやそれにともなう死があったことが匂わせられ、そこが一種のカルト集団的なコミュニティなのだということもわかってきます。しかし、それは2011年3月10日のこと。翌日「みなとの見える街で暮らす」と家を出る二人の少女たちの目前に大津波が迫るということを2018年の私たちはよく知っています。

こうした現実を踏まえつつ、架空の物語を構築するのは、なるほどと思う反面、それをネタにしていないか、搾取しているのではないかという疑念も起こさせます。

高野しのぶ

満足度★★

開場中から舞台下手奥のDJブースで演奏があり、出演者は舞台上で柔軟運動や発声をしながら待機していました。舞台面上部には割れたコンクリートがむき出しになっており、廃墟とおぼしき空間の中央には木製のイス5脚とテーブルが1つ。上下(かみしも)に数本立っている細い木の柱に、凧糸のような白い紐がゆわえつけられ、数本の白い線になって舞台を横切っています。舞台面の上下(かみしも)には舞台と客席を遮る木の柵もあり、出演者は舞台上に閉じ込められているようでもありました。

物語があって出演者が役柄を演じるのですが、DJが流す大音量の音楽に合わせてマイクを通してセリフを言うことが多く、次々に楽曲を披露していく音楽イベントのようにも思えました。

当日パンフレットによると脚本・演出・演奏を手掛ける僻みひなたさんは24歳になられたそうで、「24年間のことと、その1日1日のことを思い出しながら、劇を作った」とのこと。登場人物は皆、作者の分身なのかしらと想像しながら拝見しました。

開場時刻が10分ほど遅れ、初日はあいにくの雨だったこともあり、細い階段から客席への誘導は少し手間取っていらっしゃいました。全席自由ですので劇場へはお早目にどうぞ。ロビーで本作の戯曲本を購入しました(800円)。

ネタバレBOX

出演者は白い衣装を着た女性5人と男性1人。DJブースの男性1人もそのまま演奏を続けます。女性は10代の五人姉妹のようです。男性は“これから生まれるはずの命”らしく、しきりに“お母様”を探し頼っていました。丈が長い目の白いスカートに裸足、髪には白いリボンというスタイリングはいかにも少女らしく、現代日本で男性が女性に求めるのは相変わらず母性と少女性なのかと考えることになりました。

自分勝手で悲観的な若者たちが甘えたりケンカしたりしながら、悲劇の主人公のように悩みや怒りをぶちまけていきます。「特別な人間になれなかったのは自分のせいだ、私が悪いんです」という自省と自己嫌悪がするりと自己憐憫に変化し、結果的には他人のせいするような会話が多い印象を受けました。「ごめんね」という謝罪のセリフもありましたが、大きな声で相手にぶつけるので、「このままの私を受け入れて許せ」と要求しているようでした。「いつまで許しを請えばいいんですか?」と怒鳴って開き直ることもありました。「名前をください」などと言い、他者に頼らなければ自己を確立できない未熟さもさらされます。個人的には、そういう姿を俯瞰して、より滑稽に見せて欲しかったです。

2011年3月10日から12日までの3日間を示すセリフが繰り返され、東日本大震災が起こった日とその前後も描かれたようでした。僻みひなたさんは当時17歳ぐらいだったのでしょうか。ご自身の人生において大きな事件だったのだろうと思います(私にとってもそうです)。ただ、東日本大震災は東京電力福島第一原発事故も含め、現在進行形の複雑極まる災害であり人災です。なんでもない日常に亀裂が入るという意味で用いる題材としては、ふさわしくない気がします。

ラップはままごと『わが星』、繰り返しはマームとジプシーに似ていると感じることが幾度かありました。残念ながらありふれた言葉の繰り返しにはあまり効果が感じられず、テキストを刈り込んで上演時間を短くしてもいいのではないかと思いました。

橘 康仁

満足度★★★

新しい才能を感じました。独自のスタイルをどんどん突き詰めて欲しいです。

山﨑健太

満足度

フェティシズムを共有しないものには見ているのが辛い舞台だった。「おとうさま」のもと、ともに暮らす「姉妹たち」。ある種の新興宗教を思わせる設定で、どうやら性的虐待も行なわれていたことが匂わされる。「おとうさま」はすでに殺されていて舞台上には登場しないのだが、その代わりのようにして舞台上には作・演出・演奏の僻みひなたがいる。多くのセリフが音楽に乗せる形で発せられるこの作品において、舞台上で音楽を演奏する僻みの持つ「権力」は通常の演劇作品における作・演出のそれよりもさらに絶対的で、それは「おとうさま」の遺した呪いのようでもある。そこに批評的距離は感じられず、意識してやっているのであれば申し訳ないがただただ気持ち悪い。若い世代がこのような女性の描き方をよしとすることには大きな危機感を覚える。

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