Ort-d.d
採点【Ort-d.d】
★★★空間と戯曲の関係、その可能性

駅前劇場という小空間で観る「わが友ヒットラー」には、戯曲の質量とも相まって、強い圧迫感のようなものを感じました。それはこの作品を上演する演劇人たち、そして私たち自身が、昨今の世の流れに感じる違和感、不安をそのまま映していたのかもしれません。

2ブロックに分かれた客席に挟まれた、ランウェイのような舞台の上で物語は展開します。青春時代の友情/幻想に浸り続ける突撃隊長レームとヒトラーの運命を分ける会談の切なさ、反主流派(左派)のシュトラッサーの悲痛な闘い、武器商人クルップの不気味な存在感を、観客はごく間近に体験するわけです。さらに舞台は天井に向かって高さを増すスロープになっていますから、俳優たちも時には身を屈めて演技をすることになりますが、その窮屈さが、このドラマの背景にある政治的構造やそれに伴う恐怖をいっそう強く印象づけます(ヒトラーを含め、登場人物たちもまた、この恐怖から自由ではないのです)。

強い空間設計と計算された演技は、テーマの重さ、戯曲の重厚さを伝えるには充分でしたが、3時間近い大作ということもあり、沈滞感も漂っていたように思います。例えば、レームの、ヒトラーへの一種ホモセクシュアル的な執着には、もう少し色気も滑稽さもあっていいですし……そういった人間のあり方の複雑さ、幅こそが、この悲劇の深さ、面白さにも?がっているのだと思うのです。

★★★独自の美意識を徹底した空間。だが、心が見えてこない。

 三島由紀夫作『わが友ヒットラー』は『サド侯爵婦人』と対をなす長編戯曲です。私がこの戯曲の上演を観るのは今回で3度目になります。
 暗い劇場に入るなりスロープ状の白いステージが目に入りました。ステージ両脇に客席が設定されていて、いつもとは違う駅前劇場にわくわくしました。スロープ最下方あたりの天井から吊り下げられたシャンデリアには、人骨や髪の毛を思わせる装飾が施され、ユダヤ人虐殺を想像させます。

 男同士の言葉の闘いは常に丁々発止というわけではなく、俳優はある演技の手法や型をもちいて丁寧に演じていました。緊迫感がないわけではなかったけれど、細かな対立をたっぷりと見せすぎだったように思います。型を演じるにしても、スピード感や軍隊らしい躍動感が欲しかったです。三島由紀夫戯曲の長大かつ流麗なセリフは、やはり難易度が高いですね。

 スロープが割と急こう配なので、俳優が登っていくと天井に頭がぶつかりそうになります。意外と狭い演技スペースで椅子を転がしたりもしますので、俳優への身体的、精神的負荷は高そうです。4つの脚が包帯で巻かれた歩行器が、演説台や朝食のテーブルになるのを見て、鈴木忠志さんの作品(俳優が車イスに乗って登場するなど)を思い出しました。演技手法だけでなく、演出に関してもSCOTの影響があるように見受けられました。

 千秋楽は満席で、スロープ下方の階段上にも客席が設置されていました。「CoRich舞台芸術まつり!2013春」で偶然同じ題材を扱っていた劇団チョコレートケーキと、半券割引や交互トーク出演などの共同企画を実施されていたので、その効果もあったのではないでしょうか。フェスティバルを有効活用してくださっていることをとても嬉しく思いました。

★★★★★芝居の醍醐味。

上手い役者が上手い演出家のもとで優れた戯曲を上演する。演劇にとって最も理想的なパターンだ。うまい役者が舞台上で火花を散らす。その火花が見える気がした。わざと傾斜をつけた演技エリア、その中で役者が、横になったりひっくり返ったり、縦横無尽とはまさにこのことだ。

舞台下手に用意されたオブジェや灯りも素敵で、シンプルながら本格的な作品を堪能させてもらった。

★★★なぜ、今、この様式で、三島由紀夫なのか

駅前劇場の使い方が新鮮でした。
ランウェイのような舞台美術で照明も洗練されていて、全体的にデコラティブな空間のイメージと違う、かなり作り込んだいかにもお芝居らしい演技をされていて、驚きました。

チラシのデザインもいいと思ったのですが、実際のお芝居とは一体感がなかったように思います。

三島戯曲は難しいですよね。特に長いセリフが多いですから、俳優個人の力量が試されます。
長いセリフの場面は演出の工夫がもっと必要だったのではないでしょうか。
ただ、私に合わなかっただけなのかもしれませんが…。

★★この過剰な演技は一体?

Ort-d.dを観るのは初めて。若手だけではなく、中堅やベテランと呼ばれてもおかしくない人たちがCoRich舞台芸術まつり!にエントリーしてくるのはとても嬉しいことだと思ったし、単に若さで押し切るのではない演技や演出に出会えるかもしれないと期待していた。

しかし結果からいうと、この作品の観劇はわたしには苦痛を伴う厳しい体験になってしまった。三島由紀夫の戯曲を上演する際の制約(忠実な上演)があるにせよ、3時間もこの状態が続くのかと……。役者(レーム役)の大仰な演技はもちろん演出によるものだろうが(あるいは俳優の暴走を演出が抑えられなかったのか?)、あんなに過剰に振る舞う必要がどこにあったのかわたしには分からない。それが現代日本人の言葉=声でないのはもちろんだが、かといって、ナチス時代のドイツ人があのような発話をしていたはずもない。もちろん演劇は「演じる」ものだから、発話の仕方を創造するのは全然結構なことなのだが、わたしにはあれは「嘘の言葉」を喋っているとしか感じられなかった。あるいは何かしらの異化効果をともなって、別の世界を見させてくれるものだとも思えなかった。レームを演じたスズキシローは別のところで観たことがあって、その身体性が面白いと思っていたので、今回どうなるのか、むしろ楽しみにしていたのだけれども。

また、わたしが思うにあの戯曲の妙は、まず、ヒトラーが狂人ではなくて「普通の人」だということ。そして同性愛的傾向を含む三角関係の中で、中道を歩むと称して身内を切り捨てていくところ、かな、と思うけど、どこらへんに今回の演出の肝があったのだろうか。

これが、Ort-d.dの中ではあまりうまくいかなかった失敗例なのか、それともベストを尽くした結果がこれであるのか、他の作品を観ていないのでなんとも分からないのですが。

このページのQRコードです。

拡大