あの夏の夜の夢 公演情報 演劇ユニットキングスメン「あの夏の夜の夢」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     べし観る! 華5つ☆
     曼荼羅は著名ライブハウス、JR吉祥寺南口(公園口)を出て直進できる道を真っ直ぐ。バスが通れる程度の道を抜け丸井やドンキが対面に見える大通り迄出て信号を渡らずに右折、対面のドンキを過ぎて少し歩くと地下への入り口がある。畳半畳程の入り口なので見落としやすい。
     ライブハウスでの公演であるから当然バンドは生。3人編成のバンドでドラム、ベース、リード各々のギター。場転や台詞の切れ目に、演じられている舞台に相応しい曲を選曲して演奏してくれて演劇と音楽が互いに混じる、或いは交感する、時に競合したり逆に引いて舞台の雰囲気を濃密にするなど、シェイクスピアにロックというのは初めての経験であったが実にフレッシュでグー。最終追記2025.7.20 10:04

    ネタバレBOX


     そういえば半世紀程前、シェイクスピアに詳しい友人からシェイクスピアは実在していなかった、という説が出ているとの話を聞いたことが在った。その後学会でどうなったかは残念乍ら知らないが、数あるシェイクスピア作品の内、完全オリジナルは1本、殆どオリジナルが1本、この2本の内の1本が「A Midsummer Night’s Dream」である。もう1本の作品名とどちらが完全オリジナルとシェイクスピア実在説の研究者たちが考えているかは調べてみると良い。
     今作では、シェイクスピアを底本に脚本が作られているが、タイトルに“あの”が付いているように演出の篁さんが仕込んだ部分がある。今作終盤部に現れるが、このシーンが、始めっから「紳士・淑女の公式見解」からは懸け離れた若者たちの恋愛模様(現在ではディミートリアスとライサンダー二人の若者がハーミアを愛し、ハーミアの父イージアスが認めているのはディミートリアス。ハーミアが惹かれているのはライサンダー。而もハーミアの幼馴染であり仲睦まじかったヘレナはディミートリアスに恋していることが描かれ、アテネの法に照らして父の命に背けばハーミアは死刑か生涯僧院に入って神の僕となるかを選ばねばならぬ。父権の絶対な頃の父としては当然の判断に娘が逆らう設定等はエリザベス朝にあっても相当ぶっ飛んだ内容と思われる処から始まり、思い余ったハーミアは死か修道院かどちらかを選ばねばならぬ期限までにアテネの法が及ばぬ地にライサンダーと駆け落ちする為、郊外の森で落ち合う約束をする。
     一方森では妖精の王(オーベロン)、妃(タイテーニア)の夫婦喧嘩に端を発した惚れ薬の作用から物語はヒッチャカメッチャカな展開を遂げる、更に同夜アテネ公爵(シーシュース)と彼に強奪されたアマゾンの女王(ヒポリタ)婚礼の夜に催される演劇の募集に応じた民衆たちの段取りや稽古が森で行われていた。パックはタイテーニアの目にも惚れ薬を垂らしていたのでタイテーニアが目覚めて初めて目にしたのは祝賀上演の稽古の為、森に来ていたボトムであった。これら見事なシッチャカメッチャカぶりが物語をずんずん推し進めて行く。
     トリックスター顔負けのシッチャカメッチャカな各場面が篁さんの仕込んだワンシーンでいきなり収束する。シェイクスピアの優れた台詞の一枚上を行くと言っても過言では無いこの1シーンは見事という他は無い。実際にどんなシーンであったかは観てのお愉しみだが、その実態は終演後に追記する。以下が終演後の追記だ。
     {一つ、人間の論理で言えば矛盾と見えなくもない点はある(それは、パックがタイターニアの目に惚れ薬を掛けていた点だ*)が、妖精たちは人知の及ばぬ“魔法”の力を持つ異次元的存在、人間如きの判断で測ってはなるまい。}何れにせよこのシーンの圧倒的インパクトは、今作でシェイクスピアが多用している矛盾語法に紛れて多くの人が看過してしまっているかも知れない。
     今作のラストはシェイクスピアの台詞を活かした民衆演劇口上の見事な矛盾だらけの修辞などを通してハッピーエンドの大団円の安定感と天才シェイクスピアの大きな翼に護られたような幸福感に素直に浸れる人が殆どだろう。
    因みに篁さんの仕込んだワンシーンは以下
     妖精の王オーベロンがパックに命じた最後の命令の如何を訊ねる席で、パックが頭部を覆っていたフードを脱ぐと、其処に現れたのは妃タイテーニア。これを見たオーベロンは、それ迄の堂々たる威厳を忽ち喪失してしまう。何故なら王は唯偉そうにパックを手足の如く使い、実際にその命令の手足となって、様々な行き違いや矛盾、抗争を丸く収め大団円を齎したのは、パック即ち妃(この場合女王と言った方が相応しいが)だということを悟るからである。更に深読みをするならこの解釈は己の存在について思考する総ての男女に納得されるものだと信じたい。何となれば女性は産む性であり、女性が産むのは単に子供というに留まらず未来そのものだからである。男性はこの為、即ち女性に奉仕する為に存在し、未来という名の子供たちを育てる為にこそ生きていることを知っているからである。
    *無論、この部分を矛盾と見ることは容易い。然し本当にその解釈は正しいのか? ちょっと深読みしてみるなら、これは力では男性に劣る女性の生存与件に係る日常的大問題である。今作の中でも父権性や女性をもののように扱う男の姿が殆ど総ての男性登場人物に現れている。抗ってもどう足掻いても力では勝てない。それは恰も民衆が国家権力という名の暴力(軍・警察)に対する姿でもある。このような絶対的劣勢の下、正攻法で批判や念が表現できると考えるとすれば唯の世間知らずか愚か者に違いない。そんな時に用いられるのが反語法や矛盾語法である、ここで用いられているのがそれであると解するならば、これは力弱き者の問題提起の王道だと考えられる。言うまでも無く今作の演出家、篁さんは其処迄読んでこの手法を用いていると考える方が自然であろう。



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    2025/07/19 05:21

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  • 皆さま
    ハンダラです、大変遅くなり申し訳ありません。
    最終追記アップ致しました。説明がややこしいのが難点ですが、
    ご笑覧頂ければ幸いです。

    2025/07/20 10:22

    皆さま
    ハンダラです。可成り手を加えてアップし直しました。
    ご笑覧下さい。

    2025/07/19 14:00

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