いうまでもないことだが、性自認は兎も角、遺伝子は女性でXX,男性でXY。遺伝子の詳細までは書かないが基本はこのようであると学校で教わった記憶があろう。然るに日本では性教育の在り方が余りにもお粗末なことも。描かれている今作の内容から類推できよう。 By the way,現実の日本の為体をいくら上げてみても何ら意味はない。実際に妊娠が身籠った女性にどのように(肉体的・精神的・社会的)働くか? 男性にとっては? 両性間のギャップと諸対応、各々の認知差とそれを埋める為の対話が何処までキチンと当事者間で行われているのか? その実態は? 対話がまともに行われていないとすれば、その実態は? 医療との関係は? 社会的弱者と受け皿としての福祉の関りについての具体例は? これらに対する世間は? 等々ばかりでなく、今作では子供を欲しがっているが、子宝に恵まれないカップルの不妊治療のケースを対比させ日本社会の本来近代国家成立要件の1つである国民に対する国家としての人権保障の観念が政治に欠落している問題すら透けて見える。人権の何たるかを政治家の大多数が正しく理解していないという問題である。かつてはこの欠点を或る意味補ってきた世間も現在では崩壊しており、これも枢要な原因の一つとして日本の劣化は余りにも酷い。描かれている人々は典型的でありながら、同時に個別・具体的である。この脚本の最も優れた特質であろう。演出は、この本質を深く理解し舞台化している。そして緊張感を終始維持する為に場転でも舞台美術の転換を1度もしない。 板上は、ホリゾントに両開きの黒っぽい壁面に見え、開けるとネカフェ6号室等になる空間、手前両側に段を設けた高めの平台(ここはネカフェ5号室にも)。この平台上手にはコインロッカー。その客席側と反対側の下手には衝立を設けそのようにして設けた目隠しは袖となり各々出捌けとしても用いられる。因みに出捌けはもう一カ所、下手側壁に添って吊るされた暗幕の客席側にも矢張り袖を設けてここが出捌けに用いられこの出捌けから出た処に少し大型の机と椅子が設えられており、場面によって診療室等になったりする。その対面には観客から演者が見やすいように斜めに置かれた長椅子が見える。シンプルな舞台美術だが、今作を最大限その内容に集中して観て貰う為に最も有効な舞台設定だろう。 描かれる内実は無論、凄い! 殊に男性には観て欲しい作品である。カップルで観るのもお勧め。 オープニングでThe Beatles の「 Don't Let Me Down 」が掛かっており、女性の存在が、実は男を支えている本質であることが示唆され、それに被るようにコインロッカーに赤ん坊が預けられる。村上 龍が「コインロッカーベイビーズ」を発表したのは1980年、日本の決定的劣化が始まって8年後のことであった。
作品の根幹にある「命」と「社会のあり方」に真摯に向き合い、ここまで丁寧に受け止めてくださったことに、心より感謝申し上げます。
舞台美術や演出構成に込めた意図まで細やかに読み取っていただき、作り手としてこれほど嬉しいことはありません。
本作では、妊娠・出産をめぐる現実を社会問題としてだけでなく、人間の尊厳そのものとして描きたいと考えました。
性、命、家族、そして人権──そのすべてが今なお対話を必要としています。
劇場という空間で、観る人それぞれの現実と響き合う時間となっていれば幸いです。