楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜 公演情報 ルサンチカ「楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    朝起きて、歯を磨き、まずぬるま湯を飲む。
    それから少しの果物とナッツとヤクルト、レチノール入りのビタミンCとビタミンE、ビタミンB群、さらに亜鉛と大豆のサプリメントを飲む。その全てを一発で無効化してしまう喫煙の欲求と格闘し、どうにもこうにもいかない日には白旗のごとく白い煙を吐く。なかったことになったことをさらになかったことにするように換気扇が素早くそれを吸い込んでいくのを見て、少し心を落ち着かせる。
    それから顔を洗ってCICAパックをして、美顔器を10分当てる。EMSの振動が奥歯に響く不快さとともに、この一通りのルーティーンを「女優か」と鼻で笑った男がいたことを思い出す。
    鏡の前でため息を一つ吐く。
    弱い皮膚、ちょっとしたことですぐ荒れてしまう肌を隠し、そして守るための化粧をしなくてはならないことを憂鬱に思うけれど、そうしなくてはもっと憂鬱になることが目に見えているので今日も今日とて私は化ける。アイラインを引く。リップをつける。手強い相手と会わなくてはいけない時、それらを握る手には自ずと力が入り、黒は長く、赤は濃くなる。そしてとびきりの衣装に身を包み、心の中で「ナメられてたまるか」と威嚇する。奮い立たせている。
    ここまでしなければ、私は外の世界に出ていくことができない。
    だったら中の世界にいたらいい、というわけにもいかない。私にも生活がある。仕事がある。
    出番がある。

    この小さな洗面台や雑多な台所がなんら「楽屋」と変わりがないような気がしてくるのは、昨晩、日本演劇史上最も有名な戯曲の一つである『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たせいだろうか。
    違う。ルサンチカ『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たからだ。

    それは、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなかった。
    私はそこに私を見た。
    取り残されなかった、と感じた。
    『楽屋』を観てこんな気持ちになったのは初めてのことだった。

    以下ネタバレBOXへ

    ネタバレBOX

    ルサンチカは演出家の河井朗さんが主宰し、演出する舞台芸術を制作するカンパニーである。
    劇団の主宰が作・演出をともに手掛けることが多い中、「演出」に注力したアーティストによるカンパニー自体が珍しい。さらにルサンチカは「過去」の戯曲を上演する新たな形式とその広がりをテーマに据えるとともに、今、そこにいる観客、現代を生きる観客に向かって「過去の言葉を、戯曲をどう扱うか」を問うことを決してやめない。
    私はかねてよりその姿勢、演劇を通じて社会や世界、そして個人の重なりであるそれらを見つめる眼差しの深さに強く感銘を受けていていたのだけれど、本作でそれはより強固なものになった。

    清水邦夫による『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』。
    あくまで持論だけど、私はこの戯曲を、(原作に則りあえてこの書き方をするが)、「女優」という生き様における「狂気」と「正気」が不可分に交ざり合う様を描いたものととらえていた。
    そして、今回の上演はその点において新たな発見と体感に溢れたものだった。

    自分が未熟だったことも多分に影響しているだろうが、今まではその「狂気」と「正気」の源流が一体どこなのかがわからず、「女優の業のようなもの」にただただ圧倒されるに終始していた。
    言い換えると、「そりゃ俳優のやりがいのある作品だよなあ」いう気持ちになるにとどまってきた、とも言える。
    でも、本作を観て、「狂気」と「正気」の源に初めて触れた気がした。私はそれを女優という生業の「恐ろしさ」と「恐れ」だったのではないか、と感じるに至った。その二つは似て非なるもので、観客の私が彼女たちを「恐ろしく」感じる傍らで、彼女たちもまた自身の生き様(≒死に様)にそれぞれ多寡はあれども「恐れ」を抱いているのではないか、という実感だった。
    そして、そのときたちまち彼女たちは舞台と客席、楽屋とその外を飛び越え、私の前にようやく現れたような気がした。私は初めて彼女たちをとても身近に感じたのだった。
    伊東沙保さん、キキ花香さん、日下七海さん、西山真来さんの4名の素晴らしい俳優がそう感じさせてくれた。

    この戯曲、その上演において私にはもう一つ持論があった。
    それはこの戯曲を上演する限り、4名それぞれの俳優の個性やその魅力をどこまで引き出せるか、にかかっているのではないか、ということだった。少なくとも私にとって、「俳優に魅了されること」はこの作品において何よりも重要な意味を持っていた。
    そして、本作はそれをおつりが出るほどの強度で成し遂げていたように感じた。今まで観た中で最も俳優に魅了された『楽屋』だった。
    4名がそれぞれの肉体を以て、不可分に混ざり合う「狂気」と「正気」を、「恐ろしさ」と「恐れ」を体現していた。
    それはやはりとても恐ろしい光景だった。

    「生きていくこと」と「働くこと」をかけ離すことはできず、それに苦心しているうちに、生きていくために働くはずが、働くために生きていきている状態に逆転する。そしてやがて生きていくことよりも、働き続けていくことの方を優先する体や心になっていく。
    それは、「女優」に限ったことではない。
    私や家族や友人、客席で隣に座る見知らぬ誰かもまたきっとそうかもしれないと思う。

    いつかくるかもしれない出番を待ち望み、なくなるかもしれない出番を恐れ、短いターンで何度もそれを繰り返しながら生きていく。それは、生きていくことを熱心に進めながら、死んでいくことに着実に向かっていくことそのもののように思える。自分よりもそれから遠く見える他者、その躍動に細胞レベルで焦りを抱くとき、私は他者を「恐れ」、そして、自分のことを「恐ろしい」と思う。

    「生きていかなければ」
    「働かなくちゃ」
    そのセリフがこんなにも実感を伴って劇場に響くのを私は初めて聞いた。
    心の中で私はそこに私の声を重ねる。取り残されなかった、と感じた印に。
    昨晩『楽屋』は私にとって、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなくなった。

    今日も今日とて「女優か」と鼻で笑われた一通りのルーティーンを終え、長い黒や濃い赤、とびきりの衣装で私は武装する。生きていくために。働くために。
    小さな洗面台や雑多な台所を通り越して、ドアを開ける。
    私には出番がある。
    そう信じたい一心で外に出る。

    0

    2025/05/01 00:10

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大