楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜 公演情報 楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.8
1-4件 / 4件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    朝起きて、歯を磨き、まずぬるま湯を飲む。
    それから少しの果物とナッツとヤクルト、レチノール入りのビタミンCとビタミンE、ビタミンB群、さらに亜鉛と大豆のサプリメントを飲む。その全てを一発で無効化してしまう喫煙の欲求と格闘し、どうにもこうにもいかない日には白旗のごとく白い煙を吐く。なかったことになったことをさらになかったことにするように換気扇が素早くそれを吸い込んでいくのを見て、少し心を落ち着かせる。
    それから顔を洗ってCICAパックをして、美顔器を10分当てる。EMSの振動が奥歯に響く不快さとともに、この一通りのルーティーンを「女優か」と鼻で笑った男がいたことを思い出す。
    鏡の前でため息を一つ吐く。
    弱い皮膚、ちょっとしたことですぐ荒れてしまう肌を隠し、そして守るための化粧をしなくてはならないことを憂鬱に思うけれど、そうしなくてはもっと憂鬱になることが目に見えているので今日も今日とて私は化ける。アイラインを引く。リップをつける。手強い相手と会わなくてはいけない時、それらを握る手には自ずと力が入り、黒は長く、赤は濃くなる。そしてとびきりの衣装に身を包み、心の中で「ナメられてたまるか」と威嚇する。奮い立たせている。
    ここまでしなければ、私は外の世界に出ていくことができない。
    だったら中の世界にいたらいい、というわけにもいかない。私にも生活がある。仕事がある。
    出番がある。

    この小さな洗面台や雑多な台所がなんら「楽屋」と変わりがないような気がしてくるのは、昨晩、日本演劇史上最も有名な戯曲の一つである『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たせいだろうか。
    違う。ルサンチカ『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たからだ。

    それは、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなかった。
    私はそこに私を見た。
    取り残されなかった、と感じた。
    『楽屋』を観てこんな気持ちになったのは初めてのことだった。

    以下ネタバレBOXへ

    ネタバレBOX

    ルサンチカは演出家の河井朗さんが主宰し、演出する舞台芸術を制作するカンパニーである。
    劇団の主宰が作・演出をともに手掛けることが多い中、「演出」に注力したアーティストによるカンパニー自体が珍しい。さらにルサンチカは「過去」の戯曲を上演する新たな形式とその広がりをテーマに据えるとともに、今、そこにいる観客、現代を生きる観客に向かって「過去の言葉を、戯曲をどう扱うか」を問うことを決してやめない。
    私はかねてよりその姿勢、演劇を通じて社会や世界、そして個人の重なりであるそれらを見つめる眼差しの深さに強く感銘を受けていていたのだけれど、本作でそれはより強固なものになった。

    清水邦夫による『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』。
    あくまで持論だけど、私はこの戯曲を、(原作に則りあえてこの書き方をするが)、「女優」という生き様における「狂気」と「正気」が不可分に交ざり合う様を描いたものととらえていた。
    そして、今回の上演はその点において新たな発見と体感に溢れたものだった。

    自分が未熟だったことも多分に影響しているだろうが、今まではその「狂気」と「正気」の源流が一体どこなのかがわからず、「女優の業のようなもの」にただただ圧倒されるに終始していた。
    言い換えると、「そりゃ俳優のやりがいのある作品だよなあ」いう気持ちになるにとどまってきた、とも言える。
    でも、本作を観て、「狂気」と「正気」の源に初めて触れた気がした。私はそれを女優という生業の「恐ろしさ」と「恐れ」だったのではないか、と感じるに至った。その二つは似て非なるもので、観客の私が彼女たちを「恐ろしく」感じる傍らで、彼女たちもまた自身の生き様(≒死に様)にそれぞれ多寡はあれども「恐れ」を抱いているのではないか、という実感だった。
    そして、そのときたちまち彼女たちは舞台と客席、楽屋とその外を飛び越え、私の前にようやく現れたような気がした。私は初めて彼女たちをとても身近に感じたのだった。
    伊東沙保さん、キキ花香さん、日下七海さん、西山真来さんの4名の素晴らしい俳優がそう感じさせてくれた。

    この戯曲、その上演において私にはもう一つ持論があった。
    それはこの戯曲を上演する限り、4名それぞれの俳優の個性やその魅力をどこまで引き出せるか、にかかっているのではないか、ということだった。少なくとも私にとって、「俳優に魅了されること」はこの作品において何よりも重要な意味を持っていた。
    そして、本作はそれをおつりが出るほどの強度で成し遂げていたように感じた。今まで観た中で最も俳優に魅了された『楽屋』だった。
    4名がそれぞれの肉体を以て、不可分に混ざり合う「狂気」と「正気」を、「恐ろしさ」と「恐れ」を体現していた。
    それはやはりとても恐ろしい光景だった。

    「生きていくこと」と「働くこと」をかけ離すことはできず、それに苦心しているうちに、生きていくために働くはずが、働くために生きていきている状態に逆転する。そしてやがて生きていくことよりも、働き続けていくことの方を優先する体や心になっていく。
    それは、「女優」に限ったことではない。
    私や家族や友人、客席で隣に座る見知らぬ誰かもまたきっとそうかもしれないと思う。

    いつかくるかもしれない出番を待ち望み、なくなるかもしれない出番を恐れ、短いターンで何度もそれを繰り返しながら生きていく。それは、生きていくことを熱心に進めながら、死んでいくことに着実に向かっていくことそのもののように思える。自分よりもそれから遠く見える他者、その躍動に細胞レベルで焦りを抱くとき、私は他者を「恐れ」、そして、自分のことを「恐ろしい」と思う。

    「生きていかなければ」
    「働かなくちゃ」
    そのセリフがこんなにも実感を伴って劇場に響くのを私は初めて聞いた。
    心の中で私はそこに私の声を重ねる。取り残されなかった、と感じた印に。
    昨晩『楽屋』は私にとって、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなくなった。

    今日も今日とて「女優か」と鼻で笑われた一通りのルーティーンを終え、長い黒や濃い赤、とびきりの衣装で私は武装する。生きていくために。働くために。
    小さな洗面台や雑多な台所を通り越して、ドアを開ける。
    私には出番がある。
    そう信じたい一心で外に出る。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/02/24 (月) 13:00

    日本で一番上演されている戯曲とのことだけど、観劇歴 10年で初めて拝見した。 1977年に書かれた戯曲とのことで俳優ではなく女優。後でわかる女優AとB 2人の在り様。勘の良い人なら最初に判っただろうけど判ったのは最後だった。

    4人の女性の俳優が女優A/B/C/Dを演じる。長く女優を見てきた清水邦夫が書いた女優の話なのだけど、4人はどんな気持ちで演じておられるのだろう。女優、『かもめ』のニーナも女優としての在り様に悩む役柄だ。

    伊東沙保さん、キキ花香さん、日下七海さん、西山真来さん、4人それぞれの俳優のしての味が見えてそれが良い。チェイホフ、シェイクスピアの戯曲が登場する。10年演劇を観て来ていて判るのだけど三好十郎の『斬られの仙太』は知らない。三好十郎は築地小劇場で公演されていた頃の劇作家。女優Aの時代が判る様になっている訳だ。

    開場すると俳優 4人が楽屋になっている舞台美術の鏡や手鏡で化粧をしたり、衣装を整えていて、 視線を客席にも向ける。劇中でもそうだった。これは終盤客席の灯りをいったん明るくすることと同じく、観客も亡霊に仕立て楽屋に一緒に居る心持ちにする試みなのだろうか? ここに居ない人達である女優A、B、Dは黒い衣装でアトリエ春風舎の黒い壁に溶け込む。一人白を纏い現世に居る女優Cは反対に疎外されている様だ。 伊東沙保、キキ花香、日下七海、西山真来がそれぞれ異なる演技体。そしてそれが良い。 最後のシーンはプーシキンの小詩からの引用の  華やかな都(まち)  貧しい都  囚われの心 ペテルブルグの街の「舞台と楽屋」の2面性か、その楽屋なんだな。そして囚われる心、なるほど楽屋に留まる 3人の心たちか。 その前の最後間際の三人姉妹の台詞「それがわかったらねえ、それがわかったら......」を伊東沙保さんが口にされ、 西山真来さんがこの詩を引用した台詞を話す。最後のシーン、出番が出来た女優達の見せ場だ。

    伊東沙保さんの「斬られの仙太」の件での渡世人口調が大好物だった。あの件も面白い。そして日下七海さんの眼で語る演技たち、そして鏡前でのニーナが素晴らしい。最後に楽屋に残ったあの 3人での三人姉妹を観てみたい。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2025/02/23 (日) 13:00

    何回も上演された戯曲だが、本作はオーソドックスな上演と見た。(2分押し)91分。
     日本で一番多く上演された戯曲、とも言われる有名な作品で、女優4人で女優であることの「業」を描く。何回もいろいろな団体で見ているのだが、扱い方でさまざまな演じ方があるのは知ってる。本作はどちらかと言えばオーソドックスな扱いで、ゆったりとセリフを展開してる。4人の描き方もごく普通だが、丁寧に上演していることは分かる。冒頭とエンディングのナレーションも女優Cにゆったりと語らせ、味わいを出そうとしていると思う。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/02/19 (水) 19:30

    最初、なぜ『楽屋』をやるのかよくわからなかった。

    だけど実際に舞台を観てみたら非常によくわかった。わりとメジャーな脚本と言う印象だけど、個性と歴史観と女優の魅力が非常によく出る舞台だった。

    ちなみに、いつも思うのだけど、近代演劇とは果たしてモダニズムなのだろうか?とれともプリミティブなのか?

    …それは日本では、戦前と戦後と言ってもいいのかもしれない。戦前と言っても、昭和14年ころを境に全く違う。それまではジャズなどアメリカ文化が盛んだった華やかな時代、それ以降は戦中。戦後はナショナリズムのモダニズムの夢敗れた自由な時代。つまりプリミティブ。

    日本は戦争の前後で割と自由な時代を二回経験した。その自由な数十年間は、なんだか個人的には日本の文化のなかでは宝のような期間で、その豊穣の時代があったから日本の文化的豊かさがあったんじゃないかな、とも思う、今はないけど。


    その合わせ鏡のような自由を映しながら二人の女優が舞う。髪型も似ていてお互いをディスりあうが、観客として見るなら正直、そこまで違うのかな、とも思う。それが原作者の意図なのかは知らないが、舞台の上で観測するなら極めて近似した二人の女優である。違うのは二人の年だけ。ただ戦前は豊かだったためか少しアメリカ的、戦後は同じく戦争でめちゃくちゃになって貧しかったフランス的のようにも映る。それは感情移入なのかは知らないが。映画という分野で言うなら逆かもしれないが、演劇という分野では少なくともそうだっと自分には見える。貧しくて自由な時代は、人目を憚らずに内省的になれるから、貴重である。それはあるいは政治家が内省的になるからかもしれない。…そんなことを、まさに不景気で内省的だっ90年〜00代に父親が総理大臣をしていた高校の同級生のことを考えながら思う。なんだかそんな感じだ、と。ただ、そうした雰囲気も舞台上では女優の色によって自由に演出され、そういう意味では歴史的でありながら余白に演出家や俳優の色がにじみ出る非常によくできた脚本と言っても良いのかもしれない。

    モダニズムとプリミティブを感じるのは女優の元々の印象ゆえか。

    ここにアニメの影響の強かった原作の時代以降の80年代〜の影響が見れなかったのは少し淋しいかもしれない。あるいはここが演出家の腕の見せどころだったのかもしれないと舞台を観ながらふと思う。

    (ネタバレに続く)

    ネタバレBOX

    精神病院か墓場から抜け出たような女優が出現するが、これは1900年代近辺の芸術作品によく出る類型と言っても良い。その時代は多くの作品で精神病者をネタ元にした。ただし当時の芸術作品は精神分析のいまの進歩に及んでいない気がする。そもそも表現形態からして相性が悪いように自分には見える。多少は道化の要素を含み、当時だから許された類型の一つとして現在では慎重に扱ったほうが良い型のような気もする。そもそも現代には文学の歴史を知らない人も多いから、注意が必要かも。

    ちなみに舞台上の鏡はその精神病のメタファーである、と言い切れるように思う。

    ここでようやく、ここに出る役者たちはひょっとしたら一人の女優のプリズムのような内面の多面性を表してるのかもな、とも思う。
    語弊があるとあれだけど、精神病によって女性性を表現しようとしていると言っても良いように思う。この女性の多面性は、内面の多様性であるとともに観客に向ける女優の多面性でもある。気のせいかこの多面性が豊かなほど女優として優れていると見なされることが多い気がする。これは男優と違うところだと思う。

    ここで舞台上の女優たちの視線が気になってくる。そういえば始まったときから、ずっと客席をみていた。鏡越しでも、直接でも。

    男性と女性の多面性は違うと思う。

    男性は垂直的というか、権力に対しては嘘を振り撒き、横では密談し、下には隠して蹴り飛ばす。そういう多面性。僕は今までそういう虚言癖の人間の屑を役所で嫌と言うほどよく見てきた。女性も多少はあるかもしれないが、どちらかと言うと360度に対して合わせ鏡のように相手の夢を映し出せることを至高の喜びと思ってるのではないかと思ったりもする、僕はだけど。

    女優たちは観客を夢見ている。

    それが病なのかは知らないが、渇望しているのが観客からはわかる。鏡は女優の観客の視線を増殖させる良い装置でもある。観客の渇望を病的と言うならば悲しすぎるから、喜劇であると同時に悲劇。

    最後にラフマニノフとかではなくバッハにしたのが一種の答えなのかもしれない。

    ラフマニノフは分析的で重層的で無比。多くの作曲家に影響を与えたが近づくものはいない。バッハは川の流れのようで神聖。オルガンといえばバッハ。

    楽屋を読むにはラフマニノフかな、と思ったらバッハ。今まで夢見て乾いたまま死んだ魂へのレクイエムだからバッハなのか。

    途中から狂おしいくらいの悲しみが、戯曲を蘇らせてくれて良いなと思う。

    もうちょっと書き足します

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