実演鑑賞
満足度★★★★
テネシー・ウィリアムスの短編3本を合せてこのタイトルとした。幕間の前に二編、後半一編だったが、体調下げ気味で一作目の中盤で睡魔に。二作目の途中で覚醒。パンフの短いあらすじを読んで「そういう話だったの」と分かった位である。三作目は物書きを続けている(自分に重ねた?)青年が、父母も妹もいなくなった家をついに引き払う日、回想も交えて描いた家族の物語で、「ガラスの動物園」の風景が完全に重なる。若干エピソードは異なるが、父が既にいない事、母と妹という家族構成が同じ。妹は引き籠りではなくかつて水泳大会で優勝した栄光が霞む「都合のいい」女に成り下がる(二場面でその変貌が示される)。母は病気で、妹の事で心配をかけてはいけないと兄は気づかっている。父は小さい頃から家では一言も言葉を発しなかった。・・舞台上に飾られ、引越し屋が運び出して行く調度一つ一つに、そうした思い出を重ねる中、青年のイタリア人の友人が彼を連れ出そうと終始いて、青年の話に付き合ったり世間話に持ち込む。「一人にしてほしいと頼んでる」と言う青年に彼は出て行かない理由をやっと言う。「ここで人生を終わらせる気になるなよ」、だが青年はトランクとタイプライターを両手に抱え、何もなくなった部屋を一瞥して出て行く。
短編だけに人物は深く掘り下げた戯曲になっておらず(台詞で説明し切れていない)、従って若い俳優らは人物の深みをキャラを体現して表現する課題を担わされたようである。それならば米国作品でなく自国のものにしてはどうだったろうか。
昨年観た同じ17期生がやった原田ゆう作品(新美南吉伝)で見ているはずだが、今回俳優を見て「あの時の」とは思い出せなかった。あの時は生き生きとやっていたのが翻訳劇という事もあるだろうが作品が変ると随分変わる。俳優とは難しいもの。