上演順に①「童話が生まれた」②「マテリアルガールと黒猫」③「君の頷く作文」の3編。 ① はこれらの中で1番観たい作品だったのだが、事情があって遅れラスト数分しか観ることができなかったので評価はできない。悪しからず。 ② はマテリアルガールという言葉に着目した。女優の衣装もそれとなくこのヒット曲を歌ったマドンナの着る衣装のように豪華であり、この曲(Material Girl)の歌詞を分析するまでもなくプラグマティスム礼賛の世の中そのものへの軽妙で痛烈なワンパンチ。そしてそのベースにはモンローの主演映画「Gentlemen Prefer Blondes」の中で歌われた曲(Diamonds are A Girl’s Best Friend)があるとされているから、これらも総て含めて時代の遷移の中に通底する選ばれるという意味で受け身な存在論的弱者から見られたプラグマティックな社会の不条理や、陽明学の『知行合一』などとは真反対の倫理的無価値、思想的死すらを意味して居よう。今作が一見無意味な作品として形作られているのはその為である。 ③ 主人公の少女の台詞がポエティックな作品であり、花びらから「induced pluripotent stem cell」即ち「iPS細胞」をとってリプログラミングするならまだしも全くこのように最新の技術的成果を用いず新たな種子を生み育てることが可能であると信じているこの少女の夢と、この少女の幻想の基を作った話をし少女の面倒をみている姉(両親は交通事故で死亡、姉妹2人だけが助かったが妹は車椅子暮らし)などの状況説明を含めつつ、少女がいつも来ている小さな漁港へ釣り竿を持ち毎日のように通う釣る意思など全くない釣り人(釣り針も餌も付けず唯釣り糸を竿の先に付けて波間を漂わせているだけの「釣り人」)のロリコン的片思いや、この釣り人の顔が愛犬だったが既に他界したブルドッグに似ていると、少女の体を這い上がった蟻を取り除いてやろうとした「釣り人」の動作を少女の体に触れようとする行為だと取り少女の体に手が掛けられようとしたその刹那ブルドッグの首輪を掛けた女、その瞬間を逮捕されたと表現する「釣り人」は自ら内面でそのような衝動もあったと認めてブルドッグを演じる男となり果てる等、各々がそれぞれどこかオカシイ人々の間に、少女の集め毎日干していつか種がそこから生まれ育って大きくなりたくさんの葉をつけ、花開くことさえ夢見ている少女に僥倖を齎した。渡り鳥が落としていった糞の中に願っていた種が在りそれが芽吹いて若芽を出して伸びているのである。この様子を少女がたくさんの葉を養生していた入れ物の中に入った女優が演じてゆく。詩的で少し狂った人々が圧倒的に多く登場する中で唯一、姉と育ってゆく植物だけが正常を保っている。然し正常とは何か? を問う作品でもあろう。