吾輩は漱石である 公演情報 こまつ座「吾輩は漱石である」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    井上ひさしには珍しい失敗作。そこは井上ひさし、転んでもただでは起きない。シェイクスピアもいうように、どんなだめな芝居にも何かいいところがある。例えば扇田昭彦は「笑いがない」と書いているけど、舞台で俳優が演じると、ちょっとした所作ややり取りで笑いが起きる。鏡子夫人(賀来千香子)が、察しの悪い朝日記者(木津誠之)に嫌味を言ったり、夢の中のインテリたちが華厳の滝からの投身自殺を巡って哲学的に論じたり。一番は、ニセ校長役の賀来千香子が見せる文明開化の歩き方。左足、右足を新旧、西洋・日本、洋才・和魂と、びっこを引いてみせるギャグは、戯曲の文字面だけではわからない。日本の外発的な開化をユーモラスに身体で表現したものだった。

    ネタバレBOX

    あまり登場人物同士のぶつかりや、それぞれの見せ場の乏しいのも、戯曲の構造の弱いところ。休憩後(戯曲では3と4)は、3つの長台詞が主要部分を占めてしまう。一つは、賀来千香子演じる偽校長の演説、2つ目は同じく賀来千香子の演じるマドンナの半生を語る話。この2つをきっちり見せたのは、さすが賀来千香子であった。(マドンナがヌードモデルになっていたというのは、井上ひさしらしい遊び)
    3つ目は、生徒が、登場しない校長に出す抗議の手紙。面白いところもあるが、これが長い。鈴木壮麻が演じた生徒が読むのだが、セリフとして全部覚えきれないのではないか。たぶん、読み上げる小道具の手紙に、全文は無理でも、きっかけは書いてあるのではないだろうか。

    芝居の構造だけでなく、テーマ的にもちぐはぐ。漱石お得意の「淋(さむ)しい」をキーワードに、しがないインテリ教師たちの侘びしさを示すのはわかる。それをマドンナが体で慰めるのは、ストリップ小屋育ちの井上ひさしらしいご愛嬌だ。でも淋しさの処方箋が「何もしない方がいい」「気の合う仲間の顔でも眺めながら、できるだけじっとしているのが、じつは一等世の中のためになる」では、首を傾げてしまう。太宰治が寂しそうに言うならわかるが、漱石が本気で言うことではないだろう。とはいえ、漱石のセリフではなく、三四郎(代助、宗助も重ねられている)のせりふだが。

    ニセ校長の演説する教育の目標が「空っぽな人間」を育てることというのも、本気なのか皮肉なのか、その真意がつかめない。

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    2022/11/16 22:46

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