きゃんと、すたんどみー、なう。 公演情報 やしゃご「きゃんと、すたんどみー、なう。」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    数年前の初演を観た。普段は(余程好きになった演目でなければ)二度観ないが、障害者を描いた部分について難じた者として、「どう変わったか」を見届けねばと半ば義理で観に行った。(その後のやしゃごの健闘からの期待も。。)
    結論を言えば、全体としてナチュラルに抵抗なく見る事ができた。脚本そのものの骨格は変わらないが、台詞のニュアンスや演技が、初演では(自分の目には)はっきり露見してみえた綻びを、巧く均していた。
    それによって強調されるべき部分が微妙に変り、作品としての質は高まった。
    ただし「均した」という表現を使ったように、初演に感じた本質的な疑問(違和感)は、払拭されたわけではなく、これは戯曲の問題として付きまとうのだろう。終盤の部分も初演と同じだが、強調点が変ったせいか、不要に思えた。
    今回観ていて首肯できたのは、(造形が難しい)障害を持つ男女の演技である。「障害(者)」をテーマに描く作品では障害者当人の表現は一つの挑戦となるが、(戯曲の問題は別として)、今回は人物の造形と場面の成立を嬉しく見た。特に男性の軽度知的障害を持つマサシは俳優の存在を忘れさせた。

    ネタバレBOX

    葛藤の源である「障害」と、家族の和解の物語だ。
    次女の引越し(転出)の日、という設定が良い。
    三姉妹が住まう家には、軽度の知的障害を持つ長女ユキノがおり(父母は早くに亡くなっている)、夫と住んでいた次女ツキハの転居を、今日知らされたユキノは、初対面の男性を怖がる事から引越し業者と対面したショックもあって、パニック状態らしく、業者の男女二人(付き合っているらしい)が待ちぼうけを食っている。
    引越し業者は次女の夫の同期が社長をしており、後でトラブって応援に登場する。三姉妹と近しい女性漫画家がとことんマイペースで自分のネタ集めに周囲を巻き込む。長女の通所する施設のメンバーであるマサシ、その施設の自信なさげな担当者も登場し、舞台となる居間(向こう側に縁側、小さな庭と塀と勝手口まで見通せる)が、セミパブリックな場所と化している。
    特に引越し業者らが当家の問題(障害者を抱える)への第三者の視線を与え、語らせているのが良い。

    さて当事者を描く困難として、やはり引っ掛かる部分がある。
    例えば長女ユキノが、同じ通所施設のメンバーであるマサシと結婚する、と言い出して家族は大騒ぎするが、やはりこの動揺は不自然だ。
    最も「変わらない」のは、一見極大の「個性」を持つ知的障害者の方である。彼らはその変わらなさをもって、周囲の理解を勝ち取る。家族はどのように長女に接して来たのか。限界はあったにしても早く死んだ母は愛情を注ぐ努力をした人柄だった事が窺える。
    どちらかと言えば「変化」するのは周りの方で、「結婚したい」発言は長女の「変わらない」性質の一つの表れだとまずは捉えてその意味は何かを理解しようとする、というのが第一。結婚は軽度の知的障害者が素朴に持つ願望であり、「結婚なんてできるわけない」と本人に言って聞かせる三女の姿は、本当は理解している何かを「判らない」と突っぱねている姿に見える。つまり、三女が業を煮やし、沸点に達したと考えるならスッと通る。現実には知的障害を持つ者同士のカップル、夫婦はいる。
    障害者観は変わらねばならない、という認識から発すると、ラストの「マサシの死の予感」情報は不要で、三女が死んだ母との会話の後、長女の結婚もありと態度を変える「変化」の表れとして(長女に)白粉を塗って上げる部分も、世の女性の「結婚式への憧れ」を長女に投影したもので(長女はそれを楽しんではいたが)ユキノが求めているのはそれなのか、という疑問は残る。その前までで十分語られるべきは語られたと感じられたので、もっと前に芝居を切り上げればというのが正直なところだった。しかし作者は「和解」を明確な形にしたかったのだろう。

    細かな部分になるが、明日通所先で会えるマサシの背中に永久の別れのように泣き叫ぶユキノ(瞬間的に感情が激するある種のパニック状態、という場合であれば、長い付き合いの家族は「今はあの状態だな」と一過性のものである事と悟るはずで、一緒になって大騒ぎするのは不自然)。
    結婚する、という事が二人にとって具体的に何を意味するか、を確認せずに三女はムキになって反論し始めるのだが(だから劣った者に対して常識を振りかざす鬱憤晴らしに見えてしまう)、仮に結婚の形かマサシが今日からユキノの部屋で寝起きする事だ、とする。しかし両親のいるマサシがその事を告げていない事は、果してユキノの「つもり」とマサシの「つもり」は同じなのかと訝る余地がある。仮に二人の気持ちが純粋だとしても、話を詳らかにし、二人(あるいはそれぞれ)の言う中身が何か、によっても対応の仕方は微妙に変わってくるものだろう。
    二人の演技は、二人が分かちがたい結びつきを築いているらしい事を伝えていたが、不明な領域は広い。
    マサシは主張をした後、周囲の否定を受け入れたかのように去って行く。ユキノはそのマサシの「転換」を受け入れ難く叫んだようにも見える。
    ただ蓋然性から言えば、描かれているマサシは抽象レベルの概念を否定されてその概念ごと何かを諦める、という事はしないように思われる。仮にそれが出来るなら、相当程度の理解力がある事を周囲も判っているか悟るであろうし、マサシの覚悟の深さを周囲は想定して対応するはずだ。あるいは、探る事はするだろう。周囲の鈍感が描かれたのだとしても、舞台上のマサシから、また知的障害を持つ人達の存在から、最も見出しにくいのは「死」の気配であり、それに繋がる「諦め」も然りである。
    マサシを送っていった次女の夫から、最後に電話が掛かって来る。マサシが車道に向かって走り出し、車にはねられたという。先の事で言うと、この時に自殺というイメージが浮かぶテキストになっていたかと思う。(作者は可能性の範囲にとどめているが。)
    「変らない」事への信頼こそが彼らの財産であるその事から考えて、自死の線は現実とは思えないが、しかし真相はどうあれ周囲には傷跡を残す(結婚をあからさまに否定してしまった事が原因に思えてしまう)。
    つまり障害を持つ者の存在のリアル、よりはそれを取り巻く「我々」を問う、作品の趣旨である。だがそれは「誤解」である可能性がある、と私は水を差したくなる。障害に対する私たちの認識の投影は、別の投影を許す。投影は、理解とは真逆の態度だ。
    三女の目にだけ見える母が、後半現われて、「自分のやりたいようにやりなさい」と告げる。三女は母が早く死んだお陰で、長女が姉妹に押し付けられたと思っており、我慢強く、結婚した次女よりも自分を「犠牲に」して長女の面倒を見て来た格好だが、母を前に漸く今、本音を漏らす。一人ぼっちである事=異性関係の不幸の影に、長女の存在がある・・そう観客も理解しがちになるが、果たしてどうか。もし三女に人生の転機が訪れた時、障害を持つ姉を「手放す」選択も突きつけられる事だろう(手放した場合施設に送るかグループホームに入れるかといった話が出てくるが、その時彼女が「遠慮」して他に助けを乞わなかったのなら、それは彼女の人生設計と価値観からの選択だったのである)。
    母も、「あなたのやりたい事をやりなさい」とだけ言うが、自分の人生を姉のせいにするな、と読み替えるも可能である。

    障害を扱う細部にはどうしても引っ掛かりは出てくるが、ドラマの構造は初演より明確になり、描写もリアルさを増し、面白く観た。

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    2022/07/25 02:32

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