サド侯爵夫人 公演情報 遊戯空間「サド侯爵夫人」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     観て慄然とするような舞台。華5つ☆ 幕間に休憩都合2度。総計215分。随所で二十五弦筝の生演奏が入るが、恰も現代音楽のようなその演奏は、物語りの内容にピッタリマッチし実にレベルの高い見事な演奏である。追記12.24

    ネタバレBOX

    三島由紀夫の三幕作品だが、幕間に10分の休憩が1度ずつ、都合2度入る。台詞は原作に忠実だから内容は読んで貰うとして主役のサド侯爵夫人を能面を付けた篠本氏が演じる他、彼が演出・美術も担当している。出演俳優は総勢6名、他に二十五弦筝奏者・多田彩子さんが入る。篠本氏以外は総て女性であり、筝の奏者が黒い衣装である他は総て白装束である。
    演じられる場所が能舞台なので客席は当然正面と脇正面の二カ所。鏡の間から出て揚げ幕次いで橋懸かりを通り本舞台へ出て演ずる能の形式を踏襲した演出であるのは、主演のサド侯爵夫人・ルネ役/篠本賢一氏をはじめその母モントルイユ夫人役/坂本容志枝さん、及びシミアーヌ男爵夫人役/花柳妙千鶴さんが観世榮夫さんが主宰していた私塾・「ヒデオゼミ」で共に学んだ門下生であり榮夫さんご存命の間に能を直々に教えられていたからである。登場の際のすり足での移動は見事と言う他無い。観ていてこちらが慄然とするような歩きであった。キチンと歩けなければそれ以外の動きが総てワヤになってしまうほど歩くという行為は大切な行為である。篠本氏以外の演者は能面を付けずに演技したが、能面を被っても篠本氏の台詞は総てキチンと通り恰も面等無いかのような明瞭で切れのよいものであった。今更言う迄もあるまいが、通常の能上演では筋の多くは上手に座す地謡座がかバーするが、今作では三島の脚本通り膨大な量の台詞を総て役者が喋り抽象度の高い演技で演じてみせた。抽象度の高さは能の本質を踏まえての演技と考えられる。
     舞台正面の鏡板は無論目立つから誰詩も気付くが、上手で直交する切度に竹が描かれていることは案外知らない方も多いようだ。ところで今作では橋懸かりや目付き柱、緋色の布に覆われた階、地謡座の後ろにある桟に這わせた紅薔薇と鮮やかな茎の緑が、ジェンダーギャップに耐える女性の苦悶と苦悩を、またサド侯爵によるサディズムを象徴するかのように巻き付いている。1種類の花によって2つの事象を象徴する発想もこれを紅薔薇で表現するセンスも見事である。この舞台美術によってマルキ・ド・サドとルネの親近性と薔薇の棘を通じた非一体性をも象徴していると言ったら穿ち過ぎだろうか?
    ところで最終部分でシミアーヌ夫人はルネをルネ様と呼んでいるが、修道女としては彼女の方が先輩に当たり年も上、爵位では劣るもののこの尊称は矢張りルネの被った痛みと苦悩を通して彼女が至り着いた地点への尊敬を表していると観ることができよう。また脚本で三島のレトリックが見事であればあるほど、逆にその事実が三島の抱えていた空虚を意味すると思われる。そのように捉え得る根拠として、今作は主要登場人物の誰一人として得るものを持たないという終わり方をすることを挙げたい。サド自身は幻想の制度をその特殊なサディズムとして樹立するが、好みの異なる者には何の意味も無い。エスの一部に過ぎないからであり穿つ穴も深いが狭さは免れないからだ。そしてその果てに在るものは空虚に他なるまい。そう言って悪ければ単なる幻影にすぎない。ルネを失い、ルネは立つべき根拠を失う。そして向かおうとするのは別次元の空・神或は信仰である。他の登場人物は、所詮俗社会の住人だ。このように解釈することによって今作を芸術の域に留め、我らは日常世界に回帰する。いくらかの疲れと無常の感覚に掴まれたまま。この感覚が観終った直後に感じた同じ三島の作品「宴の後」に似ているのかも知れない。今作はこのような形で我らの生きている実世界と虚構や芸術の世界との内的な差異を際立たせる契機として上演されたと観る。

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    2021/12/13 01:53

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  • 皆さま
     遅くなりましたが追記しました。ご笑覧下さい。
                      ハンダラ 拝

    2021/12/24 18:46

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