雪の中の三人 公演情報 劇団俳優座「雪の中の三人」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    一昨年末上演されたケストナーを描いた秀作舞台では、後半ナチスによる統制が文学にも及び苦渋を舐める作家が執筆欲に負けて(と脚本は描いていた)映画の脚本のオファーをついに請けたくだりがあった。あれは確か、、そう「ほら男爵の冒険」、戦後「お前もナチスへの協力者だ」となじるリーフェンシュタールにケストナーは辛うじて「俺は作品の中で抵抗した」と返す場面が印象に残っている。
    さて本作も実はナチス時代に書かれた作品だ、といった事や、それどころか作者名すらも頭から抜けた状態で舞台を鑑賞した。何時書かれたか知れない喜劇として非常に楽しく観た。
    オープニングで小間使いが多忙な仕事の僅かな合間に暢気に豪邸の主人気取りで悦に入る様を音楽に乗せて華麗に描写する演出(小山ゆうな)、これが小難しい客を武装解除させる抜群の効果。そして俳優座俳優の喜劇仕様の人物造形の巧さと、少ない台詞で心理と状況の変化を観客に知らせる瞬殺演技ポイントでの確かな仕事にちょっと感心。
    物語をざっくり述べれば・・億万長者(事業を成功させた)トブラー氏がお忍びで旅をする。そのお膳立ては会社が催した広告コンペの二等受賞の副賞である豪華なホテルへの招待券、そこへトブラーは身分を隠しボロをまとって訪れたためホテルに冷遇される。たまたまコンペの一等を取った若者が同日同じ副賞のホテルを訪れるが、行商をする高齢の母との二人暮らしで職を探している彼はホテルでも仕事は無いかと尋ねるありさま。「雪の中の三人」の残る一人はトブラーの指示で青年実業家を装い、同じホテルを訪れた部下。彼はトブラー氏のホテルでの遇され方に驚愕するが、決して知人である事を明かしてはならぬとの厳命のはざまで身悶えする役回り。ドタバタの仕掛けはトブラー氏の出発直後、父の身を案じた娘がホテルに電話し、みすぼらしいなりをした男が訪れるが実は億万長者である、彼には良い部屋を宛てがい、マッサージと猫三匹、等々を用意せよと依頼するのだが、ホテル側は一足先に訪れた若者の方を億万長者と勘違い、上げ膳据え膳をやる。方やトブラーは屋根裏部屋を宛がわれ、冬の冷気に凍えるが、心優しい若者が彼への扱いを見て素朴な義侠心を持ち、トブラー氏を自分の広い部屋へ招く。一方青年実業家を騙る部下は若者の悩み(仕事がないこと)を聞き、素朴な同情心からぜひ我が社に紹介してやろうと「実はあの会社の社長には顔が効く」と約束する。この三人が一堂に会する場面で、トブラーと部下が初対面を取り繕うドタバタで観客を笑わせた後、若者を軸に友情関係が育まれて行く。その象徴的場面は、ホテル側が「じじい」を追い出そうと雑用を申しつけるのに全てが新鮮なトブラーは買い物から雪かきまで喜んで引き受けるのだが、その雪の日に三人はホテルの庭で雪だるまを作る。だるまを囲んだ三人を空と雪は祝福する。
    美術は白亜の色調で冒頭・ラストのトブラー家邸内、劇中では件の有名豪華ホテル内、そして雪の日の戸外。中央の回転台が適宜用いられ機能的でリズミカルな劇展開を助けていた。

    ネタバレBOX

    星一つ欠けたのは最後に僅かながらすっきりしないものが残った。
    元の脚本自体に突っ込みどころは多々あるが、三人の「友情」に照準した劇構築は私には深い感動を呼び起こすもので、そのお膳立てのための多少の無理など疵にあたらない。
    ただこの「友情」に多少関わる王様、もといトブラーの台詞が不用意に感じられる部分が。。
    (つづき)
    トブラー氏という人物が、この舞台では人の良い純真な心の持ち主として(見たところ演じた森一個人のキャラに近そうだ)形象がされていると見受けた。が、童話作家ケストナーはこの男をもっと気まま勝手な「いい気な」御仁を想定したのではないか。「人々の暮らしを見たいんだ」と語りながらお付きの者を変装して同行させたり、みすぼらしい身なりで豪華ホテルを訪ねていながら「無礼を働いたらホテルごと買収してやる!」と息巻いたり、世間知らずの億万長者である(事業を成功させた者というより世襲で高い身分を手にしているイメージ)。
    しかし本舞台では少々「まとも」なトブラー氏であるため、最後にまたぞろ「買収してやつらをクビにしてやる」という台詞を吐くのが少々耳につく。そのトブラーに対し、身分を知っても「友人」である事を許した若者が「買収するのは止めないが彼らの事情も考えてやって欲しい」と進言する。戯曲中「王様」の頭を冷やすのはこの一言のみ。そこからオチに流れるのだが、少しストーリーを遡れば・・ホテルで「億万長者らしい」と噂の的となった若者にはホテルの常連客である婦人二人がそれぞれに競って言い寄るが、すんでの所で「老人」に邪魔される事に業を煮やし、両名がそれぞれにホテル側へ老人を追い出すよう迫る。結果トブラーは追い出されるが、当然お付きの男(青年実業家と思われている)と若者(億万長者と思われている)も共に去り、憤慨した婦人二人も去る。・・つまりホテルは十分に報いを受ける。
    ついでに言えばコメディにつきもののラブストーリーは、父の身を案じてこちらもお忍びでホテルを訪れたトブラーの娘に若者は一目惚れし、その思いをトブラーに告げ「告白する」と言う。トブラーは恋に落ちた若者を応援する他なく、娘も若者と相思相愛となるのだが、トブラー放逐のごたごたで散り散りになり若者は傷心している所へ、「青年実業家」が仕事を約束したトブラーの会社に呼ばれ、そこでトブラー、その部下と再会、身分を明かされるくだりの後、娘の登場で一気に大団円となる。

    さて問題の件、トブラーはホテルを買収しようと電話で部下に所有者を調べさせるが、なんとホテルの所有者は自分であったというオチ。舞台ではトブラーは晴れやかに(やや照れ臭げに)この台詞を言っていたが、ホテルが彼を冷遇した(事をトブラーが根に持っているらしい)件がこのオチによってすっきりとは解消せずに残った。
    若者が彼を諫める台詞に、トブラーがどう応えたか、が見たかった。それはホテルの支配人の「差別的態度」とは、金で動くこの世間で、金持ちに取り入る事で日々の糧を得ざるを得ない者の悲哀でもあり、トブラー氏はそれを学びにお忍びの旅に出たのではなかったか・・という物語の初期の動機がいささか置き去りにされた感が残るのである。従って最後の間抜けな台詞が、何等かの自省の契機であったと捉えるなら、自分をいじめた従業員のホテルのオーナーが自分であった事実に、さすがに王様も抜いた鉾を納めるしかないが、そこで彼は差別主義的ホテルに対する責任として自分を恥じるのか、単に自分の能天気さに呆れるだけの正気を取り戻そうとするのか、舞台としてはリスキーだが何か「心の動線」を観客に追わせる間があって、その後「笑うしかない」自らを大いに笑う、というのが一案として浮かぶ。
    まぁそうは書いてもラスト如何では揺るがない力強さのある喜劇であった。
    唐突だがどこか「鬼滅」に通じる温かさがある。

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    2021/04/09 08:59

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