実演鑑賞
満足度★★★★
一昨年、小劇場翻訳劇「殺し屋ジョー」でクリーンヒットを飛ばした俳小の新作翻訳劇公演。開拓時代の原住民と侵略者の対立はいままでも様々なケースで舞台化されてきたが、これは19世紀半ば、入植時代のオーストラリアの先住民アポロジニと白人開拓者の対立である。
白人側にも、その地がイギリスからの犯罪人流刑地であった背景や、自国移民層のアイルランドとスコットランドの対立、老朽化しているキリスト教会の宣憮然活動システムなど複雑な事情がある。
舞台は、奥地の砂漠地帯で中年女のノーラ(月船さらら)が営んでいる売春宿を兼ねた貧しい木賃宿。彼女はアボリジニ(オーストラリア先住民)との混血の少女・オビーディエンス(小池のぞみ)を従順な使用人として使っている。そこへ荒くれ者、ガウンドリー(いわいのふ健)が僻地で仕事を求める三人の白人流浪者達(遊佐明史・北郷良)を率いて現れる。彼らはオビーディエンスを一晩の慰み者にしようとするが、ノーラは激しく拒否する。彼らの滞在中に白人の宣教師と赤ん坊が行方不明になり、教会も焼け落ちるという事件が起こり、既に開拓者として地域で生きている白人農民(斎藤真)を巻き込んで、先住民と移民白人の戦いが始まる……。
戯曲は、それぞれの人物の立場、生きるこだわりやキャラクターについても細かく触れる。それは確かにオーストラリアのなじみのない辺境を知らせてはくれるが、舞台の上の人間像やエピソードは暴力的で荒々しいばかりで観客に身近になっていかない。
それは俳優の演技にも及んでいて、客演のいわいのふ健も月船さららも柄はいいのだが、演技がパターン化している。たとえば、いわいのふと、彼が連れ歩いている舌を切られた少年との関係、月船と宣教師の妻(新井晃恵)と生き方をめぐって対峙するシーン、いずれも類型的な演技に逃げ込んで独自の真実が見えてこない。ベテランの斎藤真以外の劇団員も、それに引きずられている。一面に水面のような青く反射するガラス面を張り巡らしそこに枯れ木を数本立てた舞台ですべてのシーンが展開する。この美術は美しいし、照明もよく舞台を追っている。この新大陸の民族音楽らしい管楽器を軸にした音響も効果的だが、この舞台の抽象性が戯曲の生々しい現実感とそぐわない。
演出の真鍋卓嗣は、昨年、僻地を舞台にした人間崩壊劇「心の嘘」を既に本拠の俳優座で演出している。西部の荒廃した辺境社会の人間模様が、現代人の心にも響くいい舞台だった。一昨年の「殺し屋ジョー」も観客の生活体験と重ならないトレーラーハウスの殺伐な殺し合いの世界だったが、共感できた。だが、この一種混沌とした舞台からは、舞台の全ての人が願ったようなであろう「聖なるもの」は出現していなかった。
俳優座の衛星劇団から出発した俳優小劇場は、かつては、新劇の範疇に収まらない都会的な洒落た作品を個性的な俳優でつぎつぎにみせてくれた懐かしい劇団だが、これからも自劇団に閉じこもらず、作品を軸に新しい世界を見せてくれることを期待している。