ハンダラより若い役者さんたちへ 芝居は演じてはいけにゃい。役を生きなければ。 何とも刺激的なタイトルではないか。実際、この期待は裏切られない。今作中交差する文学作品はCamus “L’étranger”(カミユの「エトランジェ―・異邦人」)、Proust “À la recherche du temps perdu”プルーストの「失われた時を求めて」、Kafka“Die Verwandlung”(カフカの「変身」)の3作。超有名作品ばかりだからどれも既読という方が多かろう。これ以上この3作について余計な説明はしない。 冒頭、我々が現在生きるCovid-19下で人口に膾炙されたイマージュとしてのIT社会の日常が描かれると、ほぼ同時にラグビーに賭けた男の熱い念が描かれるが、無論これらは総て伏線だ。本当のことは伏線の彼方にあって思考しない者には決して見えてこない不条理が示唆される。即ちGAFA等の寡占に象徴されるIT利用によるグローバリゼーションによってIT以前とは少し変わった収奪の作法と新たな奴隷社会の到来、そのような状況の中で藻掻く社会的弱者の代表としてのLGBTQを通して描かれる我ら、自らの頭脳を用いて思考する術を持たぬ非知的階層の憐れむべき実態。即ち孤独、侘しさ、寂しさ、虚しさを梃にアイデンティティーの完全崩壊としての「変身」をLucifer(=サタン)を介して為さしめる我ら自身の愚かさ、その底に淀み蜷局を巻き蠢くコンプレックスという名の怪物と底なしの惨めさ、孤立。その悲惨! ところでLuciferはここに描かれた惨めな人々の苦悩を知る。何となれば総ての創造主である神によって彼も作られ、神の善を知らしむる為悪の権化サタンの役を負わされた存在と解釈できるからである。従って彼・サタンは掛かるが故の優しさを持つ。対する神は、無論無慈悲であり、我らの苦悩に一切関係なく超然と微笑んでいる。取り敢えずの解説はここ迄。追記は、後ほど。