脳ミソぐちゃぐちゃの、あわわわーで、褐色の汁が垂れる。 公演情報 オフィス上の空「脳ミソぐちゃぐちゃの、あわわわーで、褐色の汁が垂れる。」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

     極めてチャレンジングな作品だから、可成り好みが分かれそうだ。舞台美術もちょっとユニークな作りだし、演出も一風変わっている。ネタバレでは、少しだけ深読みしておく。観る前にネタバレは読まないでにゃ。

    ネタバレBOX


     先に演出がユニークだと書いたが場転で爆発音のような効果音が轟く。タイトルに在るようにCovid-19 以前、現実に棹差す技術もリアルとヴァーチャルを区分する術も、またそれらを対象化し得る根拠律も喪い唯épaveの如く彷徨う世代。芯も無ければ真をも求めず、無明しか持たぬ哀れなヒトをこそ描いているように思われる。実際、世界に飛び出して暫くあちらで暮らしてから日本に戻るとショックを受ける。人々の目に輝きが無いことにである。もう20年ほど前になるが、世界最貧国の1つに赴任していたことがある、大人は基本的に堕落していて淀んだような目の人が圧倒的に多かったが、子供たちの目だけは輝き人懐っこく直ぐに打ち解けることができた。自分たちの屋敷は1000坪ほど、電気もネットも水道も通っていたが、周囲にはネットは愚か、電気/自家用発電機(年中停電が起きる為)、水道も無い。民衆の家は日干し煉瓦で円形の壁を作り、天井には植物を葺いてタイヤ等を重石としている。中は総て土をならしただけ、家長の寝場所だけがベッドになるよう長方形に土盛りがされ、中央に周辺から拾って来た少し大きめの石で組んだ竈が設えられている。燃やすのは枯れ木等、夜は竈の火が消えれば真っ暗である。蝋燭1本つけることができる家は裕福な部類に入ろう。こんな状況だから自分たちが住む屋敷の門灯の周りには陽が落ちると毎夜、近所の村人が集まってきた。貧しい以上、治安も良くないという側面があるから、ビビりの所長は銃を持ったガードマンを雇い入れていた。自分の安全保障策は、先ず子供たちと仲良くなること、子供たちと仲良くなれば親たちが自分たちを受け入れる素地ができるから。こうして門灯の下に集まる地域住民とも摩擦を起こすことなく身の安全を保つことができた。無論、我々の屋敷で雇っていたコック、お手伝いさん、運転手等は皆現地人だし、仕事で雇っている現地技術者、出入り業者もフランス語で謂うピエノワールを含め、現地の業者を下請けとしていたから、現地従業員と対で契約条件交渉や要望聴取と彼らの要望をできるだけ叶えるべく本社との交渉、現地所長との直談判なども散々やった。
     然るに今作で描かれている現在日本の若者には、自分が体験していたような己の頭で考え、考えた結果が正しいと思えば上司と喧嘩し、賄賂を要求する現地役人と喧嘩し己の力の及ぶ範囲で最大限現実を切り開くという当たり前のことが無い世界だ。生きている意味を感じることが出来ないのは寧ろ当たり前過ぎる程に当たり前なのである。
     ところでこのような無明を生きる現代日本の比較的若い人々が採り得る態度は、女性であれ男性であれ、その基本には本能が来る他あるまい。所在無さを常時抱えながら尚生きるような生き方は、生きながらの死に似る。つまり夢を夢見ることすら忘れた人間は、所在無さ故の地獄に於いて、奇妙にも最も根源的な本能の1つである性に逢着する他無い。無論、彼ら・彼女らをここ迄追い詰めたのは、画一を強制する教育や日本社会特有の同調圧力、それらに「抗する」為に形成された陳腐極まるステレオタイプ。だが、今作の主張はそんな所にはあるまい。若者たちの内面はとうの昔に壊れ命を新たにすること即ち“革命”もそれを為す為の最も基本的な態度としてのラディカリズムも根こそぎ収奪され商品化された今、最後に残された己にとっての自然・身体の昏く根深い本能的欲求に従うことこそが彼らに為し得る唯一の抵抗である、とは言えないだろうか? 上っ面だけ眺めるなら、彼らはそれこそ、乳繰り合いながらラアラアと日々を腐らせているようにしか見えないかも知れないが、この虚脱の央で、己自身の指向に気付きアイデンティファイして行く為にカミングアウトする行為・換言すれば裸形になる選択は、両刃の剣。言ってみれば、suicide bombingによって世の硬直した大人達に抗議する作品と捉えることもできる。場転に使われる強烈な爆発音は、その姿を暗示していよう。

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    2020/09/20 13:55

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