『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊 公演情報 KAAT神奈川芸術劇場「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    生エンゲキではないが、意外に味わいある「作品」に遭遇できた。
    今夏の目玉の一つになるはずであった公演だが、作演出・岡田氏からの申し出で実現した"何らかのクリエイト"。夏に未練を残して現れたこの「上演の幽霊」という作品は風変わりで、不思議にある完成形を成していた。
    感触はラジオドラマに近い。映像は、画面の端に暮れなずむ街路がガラス越しに見える小さなカフェ風の空間で、真ん中のテーブルの上にスマホが置かれている。時おり通行人の影が通過するので「ライブ」が目指されていると分かる。
    カメラは固定。場面の変り目(人物の登退場)には沈黙が訪れ、人影が現れてスマホが出はけされる。そこでよく見ると、画面には人物が映っており、演者がスマホ画面の中に「存在」しているのだと気付いた。もちろん表情は見えず、殆ど独白(手記の朗読風)であるので動きもあまり無い。したがって視覚情報から「物語」の手掛かりをもらう努力は不要と知れ、耳での鑑賞を意識した演出だろう、ゆったりした台詞の間合い、声のトーンで、深夜ラジオの声に身を委ねるあの感覚に誘われる。最近コロナの巣籠り効果でラジオ聴取率は上がり、ラジオ番組動画がyoutubeにも上がるようになって、好きな番組も出来た。映像メディアが「目」をくらます術を使うのと違い、聴覚メディアは「耳」をくすぐる。耳が聞き分けるのは「そこの本当があるか」であり、「実は・・」と内緒話を始める媒体としてラジオは(不特定多数を対象にしながら)最適なメディアであるのも、「聴覚だけ」が関係してそうだ。そんな事を感じていた頃合、その特性をとらえた「作品」にラジオ的に没入した。

    独白が続き、「能だ」と思う。宣伝に「能」と謳っていたっけ? 『挫波』・・建設中の新国立競技場に、一度はそのデザインが採用になった今は故人であるザハの影がしばしば過る。霊の予感。と、彼の前に不審な人物(競技場の生霊?)が現われ、ザハの霊が憑依した体験でもあるかのようにその物語を語る。能のワキに当たる主人公の目も、いつしか問題の人物を見、彼を置き去りにして五輪の喧噪に沸く社会を、見る。
    長い独白自体、岡田氏らしいテキストでもある。二話目の「敦賀」は廃炉が決まった高速増殖炉もんじゅが擬人化されていた。

    上演後のリモートトークに拠れば、稽古もリモートで行い、独白シーンが多いテキストでも個別稽古でなく役者は揃ってやり取りをした。上演は録画された映像を使って行う。スマホに映ったように見えた映像はスマホ型の板面にプロジェクターで映したものだという。ただし録画+録音はやはり上演の時間通り、演者たちは相手役が喋っている間も自分の姿を存在させ続ける、という「上演」と同じ条件で為されたものだという。リモートのタイムラグが障害になるような丁々発止の台詞交換は無いのでテンポ感の問題は生じない、にしても、画面上フィギュア人形がテーブル上に踊る程度のサイズであれ、同時に登場している者同士のやり取りは、為されている。その意味でこれは「演劇」と呼べそうだ(同時進行で相手に即応して存在しあう関係がそこにあるので)。ただその苦労話として、モニターとしてのスマホの画面は小さいため相手の姿は殆ど見えず、聞こえる台詞をリアクションの手掛かりにするしかなかった、というようなこと。

    聴覚をくすぐられたもの・・言葉と言葉の間の十分な間に聞こえて来る波の音、ギターをメインの風景描写的な音(楽)、そしてエネルギー量的には圧倒的だった七尾旅人の歌も、「作品」と調和していた。

    五輪開催を前提に企画されていた作品だが、五輪中止の状況では「五輪」鎮魂歌とも解せる。場違い感は全くなかった。
    2021年の東京五輪中止を「考えられない」多くの都民により小池都知事続投が決められたが、もし舞台の上演が来年実現したとして、さて五輪の方は果たして・・。

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    2020/07/08 23:42

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