ゆうめいの座標軸 公演情報 ゆうめい「ゆうめいの座標軸」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    鑑賞日2020/03/04 (水)

    「現実と妄想が行き交う巧みな作劇・演出」

     劇団ゆうめいが過去の上演履歴のなかからこれまで活動の軸となる三作品を再演する企画「ゆうめいの座標軸」。2019年上演の『姿』上映会やワークショップ発表会を含む大型の催しである。途中『俺』のダブルキャスト中止や『あか』の上演中止が決定。私は上演作品の『弟兄』と『俺』を観劇した。以下の記述は『弟兄』の初日公演を中心としている。

     2019年にMITAKA"Next"Selectionで上演された『姿』は、三鷹市芸術文化センター星のホールの広い空間を目一杯使った力作で、2時間近く全く飽きなかった。今回はこまばアゴラ劇場の小空間をどのように使おうとしているのか、期待しながら劇場へ向かった。

    ネタバレBOX

     場内に入るとブラスバンドによる『ルパン三世のテーマ』や『風になりたい』『LOVEマシーン』の演奏が耳に入る。舞台上に10枚ほど並べられたキャンバスには油絵のような抽象画が飾られている(これらの絵画の由来は『あか』で明かされるとのことだった)。中学・高校の放課後や学園祭の風景を思い出す客入れである。

     作・演出の池田亮本人を投影していると思しき主人公の池田(中村亮太)は、中学時代の壮絶ないじめ体験を観客に打ち明ける。舞台上には中学時代の池田(古賀友樹)が登場しその傍らに現在の池田が寄り添いながら物語を進めていく。いじめっ子へ復讐を夢想し、自殺をしようにもできなかった日々を乗り越え高校に進学した池田は、陸上部で親友と出会い、やがて彼を弟と呼ぶようになる(演じるのは古賀友樹・二役)。幸せな時間がずっと続くかに思えたが次第に暗雲が立ち込め……やがて池田は演劇と出合い自身が負った体験を劇化する術を覚えるのだった。

     本作第一の魅力はせりふの巧みさである。池田と弟はふたりきりでいじめ体験を茶化しながら湿っぽくなく打ち明け合う。「二人でスイーツパラダイスに入って浮きまくったのを誇ったり、ドンキホーテにいる不良カップルへ気付かれないようにウインクしまくる回数を競ったり」というような逸話も固有名詞の入れ方が絶妙である。やや若書きでぶっきらぼうに聞こえはしたが、作者が書きたかったことはきっとこの弟との日々にあると思えたし、後に知ることになる悲劇を思えばこの二人のやり取りは輝いて見える。

     現実を徹底して描く一方、そこに入り込む夢や妄想は強烈な印象である。池田はいじめっ子たちへの復讐をノートに記していたが、それを成し遂げることはできない。代わりにどのように復讐したかったが舞台上に再現される。いじめっ子が飼い犬に食い殺されるであるとか、いじめっ子の家がザリガニの大群に乗っ取られるであるとかが、犬のぬいぐるみや家のミニチュア模型など手の込んだギミックで描かれて面白い。なかでも成長した池田が彼女(鈴木もも)と寝そべっているときに悪夢にうなされる場面は、おかしいながら生々しくもあり苦い見ごたえがした。

     さらに音楽の使い方がいい。中学時代の池田は自殺を図ろうと屋上へ登る途中で、高校生たちが部活の顧問のため長渕剛『乾杯』を練習する様子を目にする。稚拙な演奏がサビに近づくにつれて感極まる。この演奏を聞いた池田が「(自分のことを)殺せねえよ」と漏らす場面が目に焼き付いた。また弟が好きだった椎名林檎『女の子はいつでも』が、成長したいじめっ子(小松大二郎)からの逃亡に使われる幕切れが切ない。

     2017年2月に初演、同年9月に再演した『弟兄』の三演は「トラウマティックな思い出を消化し劇化したことで実人生がどう変わったか」と銘打たれている(「CoRich舞台芸術まつり!2020 応募公演への意気込み」より)。冒頭の説明でいじめっ子たちに許諾を得て劇化し仮名化、一部にフェイスブックをブロックされたとの説明があったり、成長したいじめっ子に対していじめ体験を劇化していると激白する場面を見ればその企図はわかるものの、やや食い足りないと感じた。それは許諾を得る過程でモデルとなったかつてのいじめっ子たちとどのようなやり取りを交わしたのか、という点をさらっと流したことに覚えた違和感に端を発している。たとえば『俺』の主人公がスマートフォンのアプリを用いて自身の体験を実況中継したように、より現在進行系で内面を吐露する手法を採用すれば本来の上演意図に近づいたのではないかと感じた。

     また、なぜいじめっ子は池田をいじめたのか、いじめに走らざるを得ない動機は深くは掘り下げられないため図式的に見えてしまった点は拭い難い。「死ね」という紙を貼られたりザリガニを食わされたりしたいじめのエピソードは強烈ではあるが、被害者の告白にウェイトが置かれすぎており加害者側の言い分が軽視されていると感じたのである。『姿』で描かれたような、両親の不和や虐待がいじめと連関するような場面があってもよかったのではないだろうか。

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    2020/03/25 22:20

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