満足度★★★★
一見すれば、よくできた家族はぐれ者の帰郷もの、だ。
長く生まれた家と家族を顧みなかった34歳の兄が突然帰郷してくる。その兄になじめなかった弟とその妻、出郷した兄へあこがれを持っている妹は成人期だ。そして母。
兄が帰郷したわけは冒頭で明かされているが、余命は一年ほどと(明確に言われていないがエイズである)宣告されていて、それを家族に告げようと田舎に帰ってきたのだ。しかし、田舎住まいの家族とは全く異質の都会的な仕事に就いた兄への接しかたに戸惑う家族に、それを言い出せない。
この戯曲が20世紀最後の名作といわれているのは、世紀末のエイズで夭折した作者の生命に対する渇仰と、家族の心情との落差の間で生きる絶望が見事に描かれているからだろう。背景には、突然エイズという病に侵された世紀末時代が浮き彫りされている。そこに生きる絶望も痛いように伝わってくる。
口当たりのよさそうな時代性のある家庭劇が上演されなかったのは、原戯曲のスタイルによる。各登場人物のモノローグが長く、主人公の心情も千々に乱れて揺れる。映画はそこをうまく映像で掬いとっているが、舞台で上演すると、そこがネックになる。昨年の公演も、この公演も、やむなくわかりやすく、とか、演出しやすいように、とかテキストレジする。今回の上演はそのモノローグをほとんど芝居に組み込めるだけにとどめていて、上演時間も90分と短い。「青年団」や「地点」の影響の濃いカンパニーで、そういえば、この劇場で初期の「地点」を見たなぁと懐かしくなる。
主な感想を三つ。
原戯曲の、死を宣告されているという設定がほとんど生きていない。同時に主人公の病が「性」の病からくることも。作家が直面するのは現実的にはエイズで、戯曲ではそれと明示していないが、そのリアリティが現代の不安定な世界を生きる我々にも強く訴えるこの作品の肝だろう。テキストレジが、演出しやすいようにと世話物に寄せすぎている。
主人公の不在。劇場パンフによると演出者も意識しているようだが、それぞれのシーンが主人公とどのように交差するか、が的確に表現されていない。わからないままに、地点風の動きで演技されると形だけで終わってしまう。時には説明的になって(例えば後半の主人公に袋をかぶせるくだり)観客はしらける。また主人公の俳優(梅津忠)は、柄はいいのだが、セリフの母音の発音が弱いので、言葉がよく通らない。
俳優も演出も小劇場慣れしすぎている。脇役の弟(串尾一輝)や妹(西風生子)はよく工夫していて、リアルでうまい。母(根本江理)も柄にあっている。演出は形で見せてしまおうとするあたりが嫌味に見えるが、これはこれでできている。美術はこのスペースでは飾りすぎだと思う。音楽の選曲はさすが、音には厳しい若者劇団という感じだ。だが、観客席三十、ではほとんど身内公演だろう。舞台に飾った猫じゃらしを売るなどというくだらないことを考える前に、広い観客と立ち向かうことに挑んでほしい。せめて、スズナリ、か、トラムで。せっかくの技量である。自己満足では仕方がない。