女中たち 公演情報 風姿花伝プロデュース「女中たち」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

     謂わずと知れたジャン・ジュネ作品だ。

    ネタバレBOX

    然し、今作女優、殊に女中役の2人にとっては、極めて役作りが難しい筈だ。何故か? 知れたこと。自壊するキャラクターだからだ。拝見した今作から受けた第1印象は、ジュネ自身の体験に基づき犯罪者の心理描写がリアルに描き込まれていることだ。従って主役は無論、奥さまではない。奥さまごっこをしている女中姉妹である。無論、姉を演じても妹を演じても同じように難しい。先に挙げた通り通常の演じ方では表現できないからである。では通常の演じ方とはどのような演じ方で、今作は自壊するキャラを演じなければならないと何故難しいのか? 何故なら普通役者は役作りをすることで演劇世界の住人になるのだが、今作では、役を作ると同時に壊れなければならないからである。何となればジュネの描いた世界とは“実存の顫え”そのものであり、その本質を理解したからこそ、サルトルは彼を高く評価したのであろうから。実際サルトルは、その拠ってくる“ところ”の怖ろしさを良く知っていた。ハイデガーが書き、サルトルは表現せずに済んだ実存の地獄を。
    不遜ながら、今作の演出はその辺りのことを理解しているとは思わない。ハイデガーのdas seinの意味する所を恐らく読み込めていないのだ。現実存在の地平という場で己の実体を普遍化した時に感じる、管の如き強固な壁に生爪を引っ掻けながら否応なくずり落ちてゆく在り様そのものの齎す不安と居心地悪さを。無論、救い等何処にも無い。神は疾うの昔に死んでしまったし、恩寵等幻影でしか無いことを当事者たる本人が最も深く自覚している。その明澄性の地獄で明晰極まる意識によって己自身を生きたまま仮借なきメスを用いて腑分けする作業、それこそが実存なのである。サルトルがジュネを高く評価したのは、これが原因であると自分は考える。ジュネは己が犯罪者であることによって物(即ち物的証拠)や時間(アリバイ)そしてこれら素材のみから組み立てられ、演繹・帰納される関係性総てを己のついた嘘に対して考究することを迫られた。そのことが原因で彼はサルトルやハイデガーが体験した存在そのものが持たざるを得ない曖昧や不安に直面しているのだ。ここで描かれた女中はその意味でジュネその人である。だが、彼は発狂しなかった。発狂せずに済んだのは、自問の形式が二者の対立をその基礎とし弁証法的展開を可能とする形式をその思考形態の内に含んでいた為だ。自分はそのように考える。演出家も或いはこの程度のことは考えていたのかも知れないが、当パンを拝見しただけでは発見できなかった。この程度のことすら考え及ばなかったとすれば、もっと想像力と知力を磨いて欲しいものである。
     その点、美術は気に入った。大きな零形の額縁は、天井に繋がる部分、床に付いている部分を支点に回転可能で、額縁は金色である。上部には、丁度神社の太鼓に描かれているような勾玉の形のマジックミラーか何かが嵌め込んであり、演技している女優達の表情が映り込むと同時に、向こう側が透けて見えるのだ。この大道具が、かなり実存の本質を形象化している。お洒落な電話の受話器、不必要に飾られ部屋のほぼ全四周を取り囲むように飾られた生け花、豪華な奥様の衣装や、小物入れ、そして様々な小物(宝石類、鍵、台所にあるハズの目覚まし時計等々)そして数々の嘘と奥様に対する殺人未遂、これら総てが、ご主人の釈放を契機に女中たち2人に逃げ道の完全封鎖を告げる。女中2人が姉妹という設定になっているのも、ジュネの内部での心と魂との葛藤を描く手法として適当な選択だし、演劇術の要求する対立を表現する為の形式そのものを代弁していると言えよう。
     ところで、以上のことだけで女中たちが味わう絶望を説明できようか? 否、説明できない。姉妹たちの悪巧みが悉く失敗し、その原因が奥さまの育った環境や彼女の持つ道徳的な美徳に因っていること、そして女中姉妹にはどんなに努力しようが、運命に抗おうが、決して奥さまのように自由闊達で温かい人間性には到達し得ないという認識にあることをも見て取らねばなるまい。

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    2018/12/26 08:28

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