大駱駝艦・天賦典式「罪と罰」 公演情報 新国立劇場「大駱駝艦・天賦典式「罪と罰」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「生きていること自体が罪であり、あるいは罰である」のか?
    「罪と罰」を背負いながら、それを超越しようともがき苦しみながら、身体と心を動かしていくことが「舞踏」である。

    ネタバレBOX

    今までは毎回オリジナルの曲だったのだが、今回は全編にクラシック音楽が流れ驚く。
    なかなかの大ゲサ感がタマラナイ。
    テンションが上がる曲が多い。

    アフタートークで「なぜオリジナルの曲にせずクラシック音楽に?」の問いに対する麿さんの答えにはのけぞってしまった(笑)。ここには書かないけど(笑)。

    この数年の過去作品に比べるといろいろそぎ落としソリッドな印象。
    「生きていること自体が罪であり、あるいは罰である」という根源的なテーマに収斂されていくようだ。
    この数年のテーマにも関連し、ここにたどり着いてくる。

    今までの作品に溢れていた猥雑さやユーモアは少しだけになった。
    新境地なのかもしれない。

    全編の底流にあるのはドストエフスキーの『罪と罰』らしいが、それはあくまでも舞台上の入口にすぎない。
    麿さん曰く「我々がこの世に生を受けたということは、精子のときに1億の生命を押しのけてきたことである」「ジェノサイドを経てきた」。それは罪なのか、あるいは生を受けたことは逆に罰なのか、そうした答えのない問いが舞台の上で繰り返される。

    新国立劇場・中劇場の、広い舞台が無駄なく使われた。
    回り舞台が延々回るのを初めて観たのではないか。
    あらゆる角度が「画」になり、シーンの切り替えに効果的。
    延々と回る舞台は地球そのものと人の営みだ。時間が流れ罪や罰が今も続く。

    「身体的には止まっている」シーンが多く、舞踏は単に踊るだけではないことを示した。

    白・麿赤兒に紐付けられた黒・麿赤兒。どちらがどちらを操っているのか。
    舞台には1人悩む青年がいて、銃を社会に向けて構える。
    引き金は引けない。自分の頭に銃口を向けても引き金は引けない。
    罪や罰はそんなことではないのだ、と言っているようだ。
    白&黒・麿赤兒はそうした諸々の苦悩をすべて背負っているようだ。
    罪も罰も背負いながら、それとは超越したところにいる。

    麿さんは、シンプルな動きなのに求心力がある。歳を重ねることで昔のような動きができないのだが、それは当然のことである。しかし今の老人の身体も「舞踏」のひとつの姿だ。
    黒&白の麿赤兒さんを中心に大駱駝艦のメンバーがそれを囲んでいる様子は、しぶとく生き続けてる舞踏を称えているようであり、宗教的でもある。「罪と罰」を背負いながら、それを超越しようともがき苦しみながら、身体と心を動かしていくことが「舞踏」である、と言っているようだ。

    鉾久奈緒美さんの壊れた人形のようなエロチックさ。
    我妻恵美子さんと高桑晶子さんとのコンビは健在。やはり良い。
    さらに1人で大駱駝艦の猥雑さを象徴した、我妻恵美子さんの強い存在感。ご本人は小柄なはずなのに舞台の上ではひときわ大きく見えた。

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    2018/03/21 04:55

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