チェーホフが晩年迄の16年間に何度も推敲を重ねた作品「タバコの害について」を見事に、そして忠実に、而も当意即妙に立体化し得た舞台だ。換言すれば人生そのものの精緻で正確であるのみならず、的確な見取り図である。夫と妻という社会的・人間的そして獣的相互関係は、同時に知的・生理的・社会的・文化的敵対関係を包摂しつつ、同居する。生活という自由を蝕む不気味と共時的に。目には見えず、音も立てずに忍びより、あくび一つで世界を丸ごと呑む。この恐るべき侵食を講演という形を採ることによって顕現させ、その内実を脱線させることで、子を為させ家庭という牢獄に夫を縛りつけようとする妻という存在の本質が夫に求めさせるAnywhere out of the world.を描いている訳だ。無論、こんな男女のどのような組み合わせにも等しく襲い掛かる老いについても、この作品は、見事で全く余計な要素のない筆致を用いて描いている。 極めて深く、微妙で本質的なこの難物を見事に読み込なし、味付けして提示した今回の舞台。ほろ苦い大人の、切実で深い本音を紡いで見事である。演じた益田 喜晴さんの作品解釈の見事さに裏付けられた演技の深さ、表現技術の素晴らしさも見所である。 チェーホフの「タバコの害について」は、1902年の作品だが、夢現舎の「たばこの害について」は2018年の作であり、煙草に漢字を当てていないのは、外国人であるチェーホフ作と夢現舎作を一目で見分ける為であろう。公演では、第一部で夢現舎のオリジナル作品「黄金時代(仮)」から一部抜粋し今公演の為に短編に改編された2018年作が使われている。(最終行、当パンをほぼ踏襲して作成) 因みにたばこ平仮名版では、男女の関係のうち男はアートと作品化する為の自由を得ているのに対し、同居女性は、彼の世話を焼き、身の周りのことを総てこなしている生活に縛られているのに、妻にもなっていないことから来るストレスを抱えており、このことを対立軸として芸術と芸術家、そして生活が、彼らが浴槽で飼っている獰猛極まる魚と捉えられているが、実はかなり臆病なピラニアに仮託されつつ描かれ、本編の前座という構成で本編とは対比される内容になっている点は流石である。而も本編は一人芝居であるのに対し、こちらは二人で演じられ、子供が本編では女の子ばかり7人居るのに対しこちらは零である点も興味深い。このように全体として対立軸を用いる構成も演劇的であり的確である。無論、本編にも出演する益田さんの相手役をしている三輪 穂奈美さんの演技もグー。