川村美紀子『或る女』/ 佐々木敦『paper song』 公演情報 OM-2「川村美紀子『或る女』/ 佐々木敦『paper song』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

     異端x異端と銘打った本公演。佐々木 敦の「paper song」と川村 美紀子の「或る女」との2作品上演であるが、作品上演に舞台転換だの休憩は入らない。無論、それぞれ独立した作品である。(追記2017.10.12:02:54)

    ネタバレBOX

     佐々木のパフォーマンスでも、川村のパフォーマンスでも照明はかなり絞られ、佐々木の場合では、工事現場で良く見掛るような電球の周りに防護のネットと半球型の反射板兼防護用カヴァーの付いた道具がいくつか用いられる他、エコーを掛ける為の機器が効果的に使われる。他は、机を叩いたり、蹴る。紙を破く、引っ張る、巻きつける際の、そして巻きつけた紙を通して呼吸をする際の様々な音を効果として巧みに用いている。
    如何にも男の表現らしく、その方法は構造的・構成的で論理で追える内容と観た。開演当初、板上には、上手に机と椅子、机上にはエコーを掛ける機械と印刷物が少々載っており、机の脇には、数十冊の本か、該当する量の紙束が積み上げられている他、開始前に大きな紙袋から出された矢張り本らしきものが足し増されている。その下手横には、照明用機器がたぐねてある開演直後、男は、机に向かい新聞やら雑誌から、オンナの顔の映ったページを選んで破り取り、それを机上に大事に置いて、残りはゾンザイに投げ捨てている、この行為は、恰も文字や文字情報を拒否しているかのようである。その証拠と言ってはなんだが、男は女の画像と交感する。試しに♂が画像を顔に貼り付けると、彼の呼吸は荒くなり二重、三重に張られた文字情報の下で彼は吐血している。これは無論、文字情婦を紡ぐ為に費やされた刻苦勉励の為ではない。反対に本来刻苦勉励の果てに記されねばならぬ文字表現の果てしない堕落の齎した結果としての痛ましい「知」の血である。掛かるが故に、画像と化した女たちの顔を文字情報に傷付けられた血だらけの顔に貼り付け、気を取り直すのである。ここまで観れば彼が文字情報廃棄に至ることは必然であろう。彼が猛り狂ったように文字情報を廃棄する当に直中、板下手奥に設えられた袖に、オンナが立つ。この演出は背筋がぞくっとするほど素晴らしい。
    かくして登場した女は、自由に舞う。この身体の柔らかさ、自由な表現のレベルの高さが見事である。一方、彼女は何か絶対的なこと或いは力及ばぬ何かに対する本能的な恐れをも同時に抱えているように映る。例えばそれは、己の身体と本能の総てが単にDNAの命令によって動かされている不如意。換言すれば、己の存在は単にDNAの乗り物に過ぎないという認識に似たものであろうか。そのような認識が真であるならば、精神と言い習わされてきたもの或いはその現れとしての事象は、総てマヤカシということになる。このような不安に対するに彼女の持っている武器は、精神に象徴される幻影と己の身体そのものだけである。だが、身体はその新陳代謝からも分かるように永遠不変のものである訳はなく、絶えず更新され、廃棄されて、その時点である一定の形を有する有機的構造体に過ぎない。レトリカルに永遠を措定するのでない限り、身体に永遠性を求めることは欺瞞以外の「なにもの」でも在り得ない。その時、瞬間、瞬間の反逆に身を委ねる以外にどのように真摯な態度を表現できようか? 彼女の踊りにはこのような問い掛けがあるように感じる。

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    2017/10/11 13:50

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