クロス ~橘耕斎ヘダ日記~ 公演情報 Re:Duh!「クロス ~橘耕斎ヘダ日記~」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

     物語は、和服を着た飛鳥が”ヘダ日記“を見付け、それを耕斎に見付かって「読んでみろ」と勧められることで展開してゆく。演じられるのは即ち、この書物の内容という訳である。 (追記2017.9.26花四つ☆)

    ネタバレBOX


     その内容は、和魯通言比考(世界で初の日露辞典)を執筆するに至った橘 耕斎が、ロシアヘ密航しこの辞典を執筆するに至った顛末だ。(追記2017.9.26)
    1854年11月に下田へやってきたロシア船ディアナ号は津波被災の後も自力航行は可能だった為、西伊豆の戸田村へ修理に向かったが、駿河湾内で荒天の為沈没。近隣の村人らが漂流するロシア人を助けた。帰る船を失ったロシア人乗組員たちは帰国する為に新たな船を建造することを望んだ。アヘン戦争で欧米の軍事力を初めて知った幕府は、西欧の造船技術を知りたいという目論見もあって建造を許可する。戸田村には優れた船大工が多かった為、ロシアの技術者、日本の船大工らが協力して翌55年4月、遂に西洋式帆船が完成、艦の責任者、プチャーチン提督は戸田村への感謝の標に船名を“ヘダ号”と名付けた。ディアナ号の乗員の約半分が、ヘダ号で故国へ帰ったが、残った者が未だ半数居たとしてこの物語は展開している。幕府役人は、頭の固い男で、ロシア人との付き合い方としては“やらず、貰わず、付き合わず”という路線を敷き極力最小限の接触によって造船技術だけを入手しようと画策していた。
    だが、ここにこのような発想には囚われぬ男が居た。適々斎塾出身の橘 耕斎である。適々斎塾とは緒方 洪庵の主宰した所謂適塾であり、コロリが大流行した幕末にも大活躍をしたし、明治維新にあっては近代日本を創る上で大きな役割を果たした大村益次郎、高杉晋作、福沢諭吉をはじめ多くの俊秀を輩出したことでも知られる。無論、洪庵自身当時の蘭学者として日本最高の蘭学者であり教育者であったことは言を俟たない。
    因みに自分は、幕閣が西洋の実力に気付いた時点を黒船来航より早い時期であるアヘン戦争に置いているが、多少とも頭の回る老中や、琉球を通じて海外事情に通じて居た島津、そして回向院の近くで育ち、父、小吉が浅草 弾左衛門と交流のあった勝 海舟らが、海外の真の姿を知らなかったなどということは信じない。世界史的にも僅か2万の延べ人数で85万の兵を抱えた清国を打ち破ることができるなどとは、通常考えない。地政学的にも圧倒的に不利なのはイギリスである。このような条件であるにも拘わらず、何故、イギリスは清国に勝てたのか? この点を少なくとも優秀な幕閣だけは考えていたハズである。こういうことを持ち出したのも、今作で龍馬の手になるとされる「船中八策」が極めて重大な役割を果たしているからである。この書、一言でいえば、近代国家設立趣意書である。当時としては画期的思想と言え、勝 海舟、横井 小楠らの影響を指摘する声も大きく海援隊を組織し、少しでも海外の実情を知らせ、且つその植民地主義に対抗する為に近代国家の礎を築こうとした龍馬のパースペクティブについては、その発想と実践への布石を評価すべきであろうと考える。龍馬暗殺の真相が分からないというのは本当のことか否かも考え直さなければいけないかも知れぬ。諸説あるのは承知しているが、この件に関しても考えさせる幅を持った作品である。
     また、舞台奥の仕掛け(引く方向によって板戸が出てきたり、障子になったり)で場所の転換がはかられているのが素晴らしい。

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    2017/09/24 07:13

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  • 吉田さま、皆さま
    遅くなりましたが追記アップしておきました。
    船中八策については、恐らく触れているレビューが無いかと
    思うので書いてあります。まだまだ尻切れトンボではありますが、
    ご笑覧ください。
                           ハンダラ 拝

    2017/09/26 17:28

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