未熟な作品から透かし見る
終演後に手にしたパンフをめくると演出の「言葉」が書かれてある。多摩美では間もなく廃科になるというその科で、「自分らで劇を作る」という難題に向かうに徒手空拳、己らを「馬鹿」と蔑む他術ない開き直りから、この舞台は作られている・・・その裏ストーリーを合せ含めて観るというのが、(作り手的にも)正しい見方である所の舞台作品を観た、のだと思う。
1時間20分、ストーリー自体があっちにぶつかりこちらで転けしながらどうにかこうにか、「ラスト」と呼ぶべき地点にたどり着く。 ドラマの鉄則もそこここで破られ、逆効果な差別言動や、「転向」を易々と遂げる人物たちや、観客が唯一拠り所にできる主人公の「視点」もほとほと脆弱な体たらく。それを(やむなく)踏み台として中盤以降の「劇的昂揚」を演出するも、ニアミスな選曲が続くなか俳優は場面の意味を掴み切れぬままただエネルギーを放出しながら彷徨い、こうして「劇作り」の悲壮なドキュメントが進行して終わる。
・・この全てを「映像」と捉えるなら、つまり製作着手から始まった彼らの「物語」に触れたという事なら、ある種の感慨も湧く。 物事はどう転ぶか判らないとも。 が・・ 演劇を学ぶ学生の成果発表はそれとしてきちんと受け止めたい。この地点を踏みしめこの先へ、踏み出して行って欲しい。