黒塚 公演情報 木ノ下歌舞伎「黒塚」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    面白し。接ぎ木のしつらえ
    不足感なく、満腹感もなく、もう一度観たいと思えるおいしい芝居、おいしい時間。安達ヶ原の老婆が「古き」時代の人、旅でたまたま立ち寄った4人が「今」の若者(一応修行僧の設定)。あたかも現代人が山かどこかで異界を覗いたという構造に、ハッとする。歌舞伎らしい活劇と期待して行った「黒塚」は殆ど能であった(黒塚は能の演目でもある)。能は寂れた場所を訪れた僧が、かつてその土地にあった事件(戦乱等)で肉親を失った霊(老婆の姿で現われる)に出会い、語りを聞くうちにその事件に思い当たり、成仏させるべくお経を上げるや老婆は舞いを舞って思いの丈を語り、ようやく成仏するというのがお決まりのパターン。ハッとしたのは、老婆の歌舞伎(能では謡い方)口調があからさまであるにも関わらず現代人は語意を読み取ろうとだけする、傍目(観客の目)からは彼らが一種異界に訪れた事が判る演出をみて、ああ、もしや(本家の)能に出てくる僧も当時は現代人、「昔」に属するものと出くわす非日常がドラマであったのだな。という発見だ。
    亡霊と鎮魂、歴史的悲劇とその昇華、といったテーマを読み取って現代に当てはめた現代能を目にする事があるが、木ノ下歌舞伎は構造だけ抜き出して現代物をやるのでなく、飽くまで「黒塚」のドラマ世界の中で、如何に「今という時間」と融合させる事ができるか、を考えているように見えた。要素分けすると二つあって、一つは僧たちの「受け」が純朴、信頼、鈍感の側に徹しているので老婆の謎めき、醜悪との対照が非常にくっきりとして面白くなっている。もう一つは(歌舞伎の演出は知らないが)能の重要な要素である「舞い」に相当する踊り、音曲(青春哀愁調?のラップも登場)、そして歌舞伎に顕著な「型」が集団で行なうリアクションの部分に型のような動きが表現法として織り込まれていたり。もちろん重要なのは俳優。夏目慎也、大柿友哉、福原冠がそれぞれのキャラをフルに活用した僧役を演じ、老婆に操られてハイテクのダンスを披露する北尾亘はよく見れば判る小さな旗を持つからおそらく案内人で独自、そして「歌舞伎の人」でない(後で知った)武谷公雄の完コピのような歌舞伎風喋りと動き、これらがちょうど良い群像を形作って愛着を湧かせた。芝居じたいが古きと新しきの遭遇で、彼ら(我々も)現代人からの「古き」作品へのオマージュという構造にもみえる。木ノ下歌舞伎の独自さが充満し、古典に引きずられた瞬間は一秒もなかった。

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    2015/03/24 10:59

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