夏目漱石とねこ 公演情報 DULL-COLORED POP「夏目漱石とねこ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    評伝とは逆の視座からの漱石
    こういう舞台は、ギリギリに飛び込むなんて無粋なことはせず、
    ゆったりとシーンOから楽しむのがお勧め。
    そこには、舞台のトーンに観る側を導き入れる力があり、
    そうして、取り込まれた舞台は、美術にしろ、シーンの密度にせよ、浮かび上がってくる漱石の人となりにせよ、視座がぶれることなく、広い舞台を力に変えて、実に良く作りこまれていて。

    猫たちも、物語を漱石のありきたりな評伝に陥れず、その姿に血を通わせ、ありがちな漱石のイメージとの違和感をすっと舞台のふくよかさに塗り替える仕掛けや力となっていて。

    頭から尾っぽまで、作品の力をたっぷりと楽しむことができました。

    ネタバレBOX

    シーン0、舞台上の猫の巧みな所作に、座席に着くなり舞台に誘い込まれる。
    主宰による前説があって、そこから物語に渡されるリズムから良い。ものの見事に舞台に引きこまれ、漱石の最後の時間へといざなわれる。

    障子の前の猫たちのセリフにそれぞれが背負う漱石とのかかわりが語られて、障子の内側での漱石とそれを見舞う人々の声や影に重ねられていく。
    やがて、障子が開き、それぞれの時間を抱いた猫たちからの漱石への視座と、漱石の回顧の情景が随時入れ替わりながら、末期の時間の風景と、そこに解ける記憶に綴られた、漱石の生きたいくつもの刹那が編みあがっていきます。

    シーンは、猫たちにも導かれながら時間をさかのぼり、冒頭の時間に戻り、更にさかのぼっていくのですが、それが評伝などの語り口とは全く異なっていて。30代から幼いころまでのその場面の一つずつに織り込まれた彼の風貌とそこから切り出される想いに、しなやかな完成度と、生々しさと、観る側の漱石へのイメージを覆すような面白さがあるのですよ。
    それぞれの時間の漱石には異なる印象が描かれていくのですが、襖と障子で組まれる場面や照明にはひとつずつのシーンを支える広さと雰囲気が生まれ、漱石自身やその時間を共に紡ぐ猫たちには、貫かれた漱石の中の異なったベクトルの痛みやビターさや諦観を描き上げていく力量があり、しかも、いよいよの死期におよんでは、廻る記憶と、それを抱く漱石自らと、それらをさらに眺める視座が、縁側の下の猫たちの献身的な所作によって組み上げられていて。

    座・高円寺1の舞台の間口や奥行きが、登場人物たちの距離感や次元の異なりを端正に描き出し、漱石自身が抱く苛立ちや孤独を映えさせる力となる。恣意的に差し込まれる演技の軽質さやある意味ベタな走馬灯の寓意も物語の歩みを裏打ちする仕掛けとして取り込まれていて。猫たちの表現のテンションは最後まで揺らぐことなく、回想の歩みにも理の重ね方があって実にしたたか。気が付けば作り手が束ねる舞台の手練にがっつりと捉えられておりました。

    終演後に調べてみたら、ラストに近い当たりで漱石の亡霊から芥川龍之介に語った言葉、「牛のように行きなさい」というのは実際に手紙に書かれていたことだったのですね。
    舞台には、そんな漱石の感慨を裏打ちする、漱石の想いと自らの人生への俯瞰がしっかりと描き込まれていて。
    それが評伝として語り綴られた漱石のエピソードとして置かれるのであれば、どこか形骸化した印象を受けるのでしょうけれど、漱石自身の視点から現われたこの舞台での言葉には、そこまで描いてきたものの熟した味わいがあって、心を捉われたことでした。

    正直に言ってしまうと、夏目漱石なんて、学生のころの宿題などで一気に何作も飛ばし読みして以来、数えるほどしか読んでいないと思う。観終わって、彼の歩みに隠された苦さや、人間臭さをスパイスに、今度はしっかりと向き合って彼の作品を読んでみたくなりました。

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    2015/02/12 01:46

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