満足度★★★★
寡占資本主義を駆逐せよ!!
学校での授業という型に入れた今作。ベートーベンの第9を構成要素に取り入れている。ピャーの劇作家、塚田氏は、今回も失踪した。2年前の矢張り夏、学生芸術祭でもテーマは儀式であったが、この時にも失踪していた。思うに、この儀式は通過儀礼のイニシエーションなのではあるまいか? 本人が意識していようがいまいが、その要素を感じる。2年前も今回も、基本的に、描かれているのは、人間の根源的な欲望に関する事柄である。2年前は、喰う、寝る、セックスする等々が描かれていたのだが、今作では、若干、毛色が変わったものの矢張り、アメリカの植民地として収奪され続けるこの日本で、大人になるということは、即ち、本来自分達が抱えている様々で自然な在り様や、そこから自然に発露してくる帰結としての、自分の頭で考え、自分の頭・身体で生き、自分達の判断で意を決して、自らの意志に従ってアイデンティファイすることであった。然し乍ら、アメリカのプラグマティックな独占乃至寡占資本主義体制は、民衆が自らの頭を使って自らの行く末を決めることを肯んじない。何故なら、それを認めてしまえば、寡占体制は瓦解するのが必定だからである。寡占する側唯一の論拠は、彼らの方が、民衆より優れた判断を下し得るとの思い込みである。即ち、社会をリードするという役割は、彼ら特権階級だけのものだと思いあがっているに過ぎないのである。彼らは、豊富な資金と彼らのイデオロギーにお墨付きを与える御用学者及び、権力に媚びを売ることで権威として収まる御用インテリらの見解を拡散し、喧伝するメディアを巧みに操り、実は意味の無い文言をパブリシティーとして流通させることで、民衆を大衆化。愚民化するのである。然し乍ら、この欺瞞と瞞着に気付く一部の人間が居る。それがアーティスト達を含む本質を見る目を持った人々であることは言うに難くない。今回、塚田氏の穴を埋めたのは安藤 尚之氏、アーティストとしてのDNAをキチンと継承していると見た。出演した女優陣・男優も無論である。彼、彼女らの、内側を見つめようとする目、そして、そのような過程を経て外へ向かおうとする目に対して、飛躍的なジャンプが必要になることも含めて、キチンと付き合ってゆきたいと考えている。ピャーはラディカルで、それ故、愛すべき劇団なのである。(追記2014.7.11)